ぼーっとすることも、人間の大切な仕事だ。
ひょっとしたら、最も大切な仕事かもしれない。

私は、小学校に入った時のことをよく憶えている。
規則の多さと、その規則の分かりにくさにはすっかり参ってしまった。こんな規則を理解し、憶え、実行できる他の子達は、みんな天才なのかと思った。
図書室を使うにも、学年によって使って良いスリッパと使っていけないスリッパがあることが分からない。1年生は赤色らしかったが、そんな細かいことを憶えていられない。
私は、何をするにも、「ぼーっとするな!」と怒られ、すっかり自信を失くした。

それは今でも続いている。
複雑怪奇な仕事の手順や、会社のルールがさっぱり理解できず、憶えられない。他の有能な人間の仕事の仕方を、私はただ驚嘆の目で眺めているだけだ。
最近は、会社法だのという、企業が守らなければならない多くの法律が出来、それに則った企業活動をしなければならないのだが、私には、それらの法律はまるで、「キャラメルを食べる時には、まず包装材をすみやかに4分の1以上剥ぎ取り、軽く内箱の底を上方に押して、押し出された反対の側の内箱の端を軽くつまんで引き出し・・・」といったことのように思える。

学校でも、会社でも、我々はぼーっとすることが出来ない。
吉本隆明さんは、娘達(後に著名な漫画家と作家になる)が子供の頃、彼女達が何か大事なことをしていたら、それを邪魔しないよう心掛けたというが、その何かには、ぼーっとすることも含めていた。ぼーっとしている娘達に買い物に行かせるくらいなら、この日本最高の思想家は、自ら買い物籠を持って市場に行った。決して子供達を甘やかしたのではなく、彼には邪魔して良いことと悪いことの区別が付いていたのだ。今の普通の親は、子供が本当に大切なことをするのを最大に邪魔しているのだし、そもそも、子供達は、馬鹿なことを大切そうにやらされているのだ。
そして、大人になる頃には、社会の複雑なシステムに順応できなくなることに恐怖を感じ、ぼーっとすることに不安と罪悪感を感じる人間になる。

社会のルールは、個人の利益の追求から生まれた欲望の仕組みを維持するものだ。それに従えば安らぎはない。
ソクラテスは「汝自身を知れ」とか言ったらしいが、どうやればそれを知ることができるのかが伝わっていない。ソクラテスは教えたかもしれないが、彼を利用する権威者達には都合の悪い教えなので、いつか消えてしまったのだろう。その教えとは、「ぼーっとしろ」である。
知性を道具として適切に使えるのはその「私自身」である。私自身がルールを定めることはあるが、それは非常にシンプルで数も少ない。
カート・ヴォネガット(米国の作家)は言う。「私の知る地球のルールはただ1つ。人に優しくしろ」

私は、今日も大切な仕事をしよう。
そうすれば、不安も恐怖もない。ぼーっとする心に不安や恐怖、それに怒りや貪欲のつけ入るスキはないからである。そして、現実的な仕事でも、個人の利益ではなく、真に人々を幸福にすることが出来るようになるだろう。
共に良い仕事をしようではないか?







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