「美人だなあ」とか「スタイルがいい人だなあ」と言われて嬉しくなることがあるかもしれない。
しかし、不思議だ。
嬉しいというのは、心の働きだ。
しかし、褒められたのは身体のはずだ。なぜ心が喜ぶのか?
逆に、「ブスだね」「デブだね」と言われて怒ったり、悔しがったりするのもおかしいかもしれない。
貶されたのは身体であって心ではない。
ところが、こんなこともある。
心が長期に渡って辛いことを感じると本当に病気になる。辛いのは心のはずが、身体が病むのである。
逆に、楽しい知らせを聞いて、身体が元気になったりする。
今のところ、うまくやれる者は少ないが、精神分析で心の中の抑圧を除くと、病気や身体の悪い症状が劇的に改善されることが実際にある。
精神分析ではないが、エミール・クーエは自己暗示で、難病を奇跡のように治した。クーエの方法が広く使われたら医者は廃業になるかもしれない。
これらのことは何を意味するのだろう?
それは、身体と心が同じものであるということだ。
賢い人はそのことを知っているので、身体を治療するにも、身体にあまり注目せず、心を治すことで簡単に身体を治す。こういった医療を心身医学という。
逆に、心を治療するために、運動したり、健康的な食事をして身体のコンディションを良くすることで効果を上げることも多い。
ゲオルグ・グロデック(心身医学)やリチャード・パンドラー(神経言語プログラミング)らは、器質性の病気も全て心因性と決め付けているようだが、それで相当な成果を上げている。
だが、身体の複雑精妙な働きを心が知っている訳ではなく、ましてや、心が支配しているわけではない。
心が無理矢理、「病気よ治れ」と念じて、病気が治る訳ではない。
同じく、心の摩訶不思議な働きを心自身が知る訳でもない。それどころか、「自分のことが一番の謎」と言われるほど、心は心のことを何も知らない。
しかし、身体も心も、見事に機能している。
それならば、一体である身体と心を創った者がいるのだろう。少なくとも、それが大自然であることは誰しもが認めると思う。
なら、大自然には計り知れない知恵があると考えねばならない。
この身体が偶然に進化したものであると考える者は愚か者であるに違いない。それは、サルがデタラメにキーボードを叩いたらエンサイクロペディアが出来る可能性があると言う様なものだ。
我々は大自然の一部であると考えるなら、その大いなる知恵は宇宙全体を創ったのだろうと想像できる。なぜなら、身体の中に見られる諸法則は宇宙全体を動かしているものと矛盾せず、同じものであるからだ。
人は、あらゆる存在の中で、唯一、自由意志を与えられているのには訳があるのだろう。
人生の謎はそこにある。その自由意志で偉大なこともするかもしれないが、数え切れない悲惨や不幸を生み出している。
心は、身体の働きすら完全に理解する可能性を持たない。だが、そんなことを楽々とやれる、かの大いなる知性に従うことは出来る。
心はこの大いなる知性に従うことで、それと溶け合い、一体となれるに違いない。
エマーソンは「神が心に流れ込んできた瞬間は忘れることができないものだ」と言ったが、それは、心と大いなる知性が溶け合うことを言っているのだろう。
アブラハム・マズローの至高体験、ロマン・ロランの大洋感情、W.B.イェイツのエクスタシー、夏目漱石の天賓、岡本太郎の爆発・・・いや、一級の芸術家でそのことを言わなかった者は1人もいない。
賢者達は、短い言葉でそれを言い表した。例えば、
なりゆきにまかせろ
南無阿弥陀仏
アーメン(然り)
なるようになる
この世に偶然はない
Let it be
全ては神の思し召し
といったようなことだ。これらを、その結果に何らの憂いもなく、自らの意思として肯定できることが、かの大いなる知性に従うということで、そうすれば、人生からあらゆる苦悩が消えることとなる。
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しかし、不思議だ。
嬉しいというのは、心の働きだ。
しかし、褒められたのは身体のはずだ。なぜ心が喜ぶのか?
逆に、「ブスだね」「デブだね」と言われて怒ったり、悔しがったりするのもおかしいかもしれない。
貶されたのは身体であって心ではない。
ところが、こんなこともある。
心が長期に渡って辛いことを感じると本当に病気になる。辛いのは心のはずが、身体が病むのである。
逆に、楽しい知らせを聞いて、身体が元気になったりする。
今のところ、うまくやれる者は少ないが、精神分析で心の中の抑圧を除くと、病気や身体の悪い症状が劇的に改善されることが実際にある。
精神分析ではないが、エミール・クーエは自己暗示で、難病を奇跡のように治した。クーエの方法が広く使われたら医者は廃業になるかもしれない。
これらのことは何を意味するのだろう?
それは、身体と心が同じものであるということだ。
賢い人はそのことを知っているので、身体を治療するにも、身体にあまり注目せず、心を治すことで簡単に身体を治す。こういった医療を心身医学という。
逆に、心を治療するために、運動したり、健康的な食事をして身体のコンディションを良くすることで効果を上げることも多い。
ゲオルグ・グロデック(心身医学)やリチャード・パンドラー(神経言語プログラミング)らは、器質性の病気も全て心因性と決め付けているようだが、それで相当な成果を上げている。
だが、身体の複雑精妙な働きを心が知っている訳ではなく、ましてや、心が支配しているわけではない。
心が無理矢理、「病気よ治れ」と念じて、病気が治る訳ではない。
同じく、心の摩訶不思議な働きを心自身が知る訳でもない。それどころか、「自分のことが一番の謎」と言われるほど、心は心のことを何も知らない。
しかし、身体も心も、見事に機能している。
それならば、一体である身体と心を創った者がいるのだろう。少なくとも、それが大自然であることは誰しもが認めると思う。
なら、大自然には計り知れない知恵があると考えねばならない。
この身体が偶然に進化したものであると考える者は愚か者であるに違いない。それは、サルがデタラメにキーボードを叩いたらエンサイクロペディアが出来る可能性があると言う様なものだ。
我々は大自然の一部であると考えるなら、その大いなる知恵は宇宙全体を創ったのだろうと想像できる。なぜなら、身体の中に見られる諸法則は宇宙全体を動かしているものと矛盾せず、同じものであるからだ。
人は、あらゆる存在の中で、唯一、自由意志を与えられているのには訳があるのだろう。
人生の謎はそこにある。その自由意志で偉大なこともするかもしれないが、数え切れない悲惨や不幸を生み出している。
心は、身体の働きすら完全に理解する可能性を持たない。だが、そんなことを楽々とやれる、かの大いなる知性に従うことは出来る。
心はこの大いなる知性に従うことで、それと溶け合い、一体となれるに違いない。
エマーソンは「神が心に流れ込んできた瞬間は忘れることができないものだ」と言ったが、それは、心と大いなる知性が溶け合うことを言っているのだろう。
アブラハム・マズローの至高体験、ロマン・ロランの大洋感情、W.B.イェイツのエクスタシー、夏目漱石の天賓、岡本太郎の爆発・・・いや、一級の芸術家でそのことを言わなかった者は1人もいない。
賢者達は、短い言葉でそれを言い表した。例えば、
なりゆきにまかせろ
南無阿弥陀仏
アーメン(然り)
なるようになる
この世に偶然はない
Let it be
全ては神の思し召し
といったようなことだ。これらを、その結果に何らの憂いもなく、自らの意思として肯定できることが、かの大いなる知性に従うということで、そうすれば、人生からあらゆる苦悩が消えることとなる。
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どちらかに邪が入っているということは、①自然の流れに逆らっている ②自然の流れが乱れている のどちらかであるとか。
誤った常識を鵜呑みにしたまま生活をすると、自然の流れがどんなだったのか分からなくなってしまうだけでなく、自然の流れまでも乱すことになりかねませんよね。
つまんないプライドや執着を捨てたいです。