うろ覚え(確かでない記憶)であるが、新渡戸稲造は、西洋人の婦人に「日本人は宗教を持たずに、どうやって子供に道徳を教えるのですか?」と言われ、困惑したが、では、日本には武士道ありとして、「武士道」を英語で書いたという。
この、「日本人は宗教なしで、どうやって道徳を教えるのか?」というのは、よく聞くようにも思う。これは、「どうやって」という質問ではなく疑問であり、「道徳を教えるのに宗教が必要である」という意味だろう。
しかし、私はそれはおかしいと思う。別に、道徳を教えるのに宗教が必要ではない。イエスは道徳を教えたのではない。彼は聖霊を教えたのだ。

少し話を変えて説明する。
私にとって、特に中学校時代は痛い(辛い、虚しい等をまとめて、一応「痛い」と書いた)思い出ばかりであった。別に恋愛やクラブ活動のことではない。
本当にやりたいことをする時間のほとんどを奪われ拘束されていたからだ。これについては、誰もが同じと思う。
「子供に好きなことばかりやらせたら、ロクなことをせず、駄目な大人になるじゃないか?」
と言われるかもしれない。その通りだ。
子供は、小学生の頃には、従うべき貴いものを完全に忘れるよう仕込まれ(動物の調教に近い)、個人の心に従うようになってしまっているので、好きなことをやれと言われたら、ゲームやテレビや食べることといった、個人の心が命ずることしかしない。これは、現代の日本の大人も同様だ。
宗教は、本当は、個人の心を超えた、目には見えないが確実に存在する貴く偉大なものを教えるためのものであった。
だが、大昔に、ほとんどの宗教自体が、個人の心に従う者達のものになってしまったので、せいぜいが道徳を教えるしかなくなったのだ。しかし、道徳というのは偏見だらけのものだ。実際にあったらしいが、自分の子供を塩焼きにして君主に奉げることが最上の道徳とされたところもあったのだ。

目には見えないが、貴く偉大なものが存在するというのは当たり前のことではないだろうか?
自然に進化したとされる生物の最も単純なものでさえ、その機能は人間には驚異であり、それを作ったものに比べれば我々の能力は足元にも及ばない。まして、最も精妙な人間の身体となると、もはや神秘とか奇跡以外に何とも言えない。これらが偶然に出来たなどと考えるのはよほどの愚か者であろう。では、神と呼ぶかどう呼ぶかはさておき、我々の頭脳や、それに等しい心を超える何かは確実にある。しかし、我々は、その偉大なものに従わずに、個人の心にのみ従う愚を犯しているのである。
それは、形も大きさもないので、どこにでもある。心を鎮めれば、即ち、個人の欲望を捨てればすぐに通じる。温かい印象やフィーリングとして交流してくる。直観や閃きとして現れる。
個人の心ではなく、それに従えば、心はそれに似てくる。全能の力を帯びた心に何も恐いものはない。







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