我々は、コヤシを拒絶する高貴なバラになるべきではない。

この世で生きていくことは、どんな意味においても、「折り合いを付ける」の一言ではないだろうか?
「折り合いを付ける」を、「妥協する」と言うと、何か否定的な感じがするかもしれないが、譲歩というのは、自分が生きていく上にも、そして、皆が仲良くやっていくために絶対に必要なことだ。
「折り合う」とは、元々は「力を配分する」という意味だ。長距離走なのに、最初から飛ばすと、すぐにスタミナ切れを起こす。最初から飛び出したい気持ちを抑えることを折り合いを付けると言うのだ。これは「気持ち優先」「心優先」では、何事も上手くいかないという、貴い真理を表している。
高貴なバラもコヤシと折り合いを付けないと生きていけない。
このことを教えるのが教育であるし、どんな子供もこのことを理解しなければならない。

例えば、我々は、何があろうと、収入の範囲内で生活しなければならない。収入と折り合いが付けられないから、困ったことになるのである。気持ち優先で、分不相応な高価なものを買うのは、長距離走で最初から飛び出す馬鹿と同じである。競馬の馬は、最初から全力を出すので、騎手がそれを抑える。馬鹿な人間も、抑えてやる者を必要とする。
しかし、世間は、収入と折り合いの付かない生活をする欲望で我々を煽り立てている。
購入に300万円必要な車のCMでも、「この車を買うのは、少なくとも年収600万円以上の方だけにして下さい」とは決して言わない。あわよくば、年収300万円以下の人にも売ってやろうと思っているはずだ。
そして、あらゆる製品の販売者がそうなのである。
サラ金から金を借りる人の大半は、必要に迫られてというより、遊びや趣味の買い物のために金を借りるのだそうで、それに驚いていたら、何のことはない、サラ金のテレビCMは昔からそうしろと言っているのである。
つまり、サラ金から金を借りるということは、収入との折り合いを放棄したということであり、確実に破綻に向かっているということなのである。

無能な警察官や検察官は犯罪者と折り合いを付けることが出来ない。
警察官や検察官は、犯罪者と折り合いを付け、仲良く事を運ばないといけない。それを「犯罪者と妥協はせぬ」と言うから、犯罪者も警察や検察との折り合いが付かずに犯罪を永久に繰り返すのである。
真実を言えば、犯罪者あっての警察、検察だ。警察官、検察官の存在意義は犯罪者に依存しているのだ。それが分かってこそ、良い警察官、検察官になれる。
そして、犯罪者あってこその裁判官である。それを自覚できる裁判官が良い裁判をやれるのだ。
裁判員制度、陪審員制度の良いところは、裁く者と犯罪者の距離が近いことだ。裁く者が、犯罪者を自分だと自覚出来れば良い裁判になる。裁判官にはそれができない。
優等生の評価は劣等性の存在に依存している。不良学生あってこその模範学生である。そのことをお互いが理解してこそ、素晴らしい友情が生まれる。優等生同士、不良同士の友情など面白くないではないか。

仮面ライダーはショッカーと戦う前に「お世話になります」と一礼すれば良い。ポパイのホウレンソウより良い教育になるだろう。
武道の試合はもちろんだが、決闘だって礼を交わしてから始めるものである。
「悪に妥協するな」という強硬な姿勢が、戦争を起こし、独裁国歌を作ったのではないのか?
悪の枢軸と言われる国だって、自国をそんな風には決して思ってはおらず、独裁者は自らを救世主と思っているものだ。
愚かな人間は、悪の国に対して過激な対応を主張する。
悪に負けてはいけないが、勝ってもいけないのだ。悪があってこその正義である。
悪を滅ぼそうとしたら、悪の方も正義を滅ぼそうとする。悪から見れば、正義こそ悪である。どちらが正しいかなんて、幻想上でしか決まることではない。
光と闇、表と裏、愛と憎しみ、これらは必ず同時に存在する。
敵と味方は区別が付き難い。根っこは同じだからだ。
悪と折り合いが付けられる者だけが、平和に生きられる。もし、真実の成功法則というものがあるなら、そんなことを教えているはずだ。

尚、折り合いを付けろ、つまり、長距離走で最初から飛び出すなとは言ったが、走らなければ勝てない。
私は何も、警察は犯罪者をもてなせと言っているのではないが、折り合いを付けられない愚かな人間は、そんな極端論に走るものだ。折り合いを付けるとは、極端論を避けるということでもある。
それを徳川家康は「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と言い、「何事もほどほどに」と言ったのではないかと思う。
私は「バランス感覚」なんてきれいな言葉は好きではない。それは、コヤシを隠そうとするごまかしがある。子供のしつけには時には罰も必要だし、警察官は犯罪者を締め上げる必要もあるのだ。
優雅な水鳥のほとんどは雑食性で、お菓子なんか持ってたら襲われることもあるし、ゴミ箱をひっくり返すなんて当たり前。それを認めてこそ、カモメの本当の美しさが分かる。
「私の全てを愛して」「彼女の全てを愛す」なんて、実はシビア(過酷)なことである。折り合いの付けられる人間だけが愛することができる。
結婚なんて、折り合い以外の何物でもない。離婚なんて、自分で折り合いが付けられない、騎手が必要な馬でしかないというだけのことだ。馬は結婚しないんだ。結婚活動以前にやるべきことがある。コヤシと折り合いの付けられるバラになることだ。





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