リラックスする時間を持つことが大切であることには、ほとんどの人が同意されると思います。
全くリラックス出来ませんと、心身は疲弊し、いずれ病気になる可能性があります。
ところで、リラックスとは、本当はどういうことなのでしょうか?
辞書によれば「くつろぐ」「憩う」などとあります。しかし、一方で、試合や大きなビジネス取引といった重要な場所に向かう者に対し、気負い過ぎないようにと意味で、「リラックスして挑め」などと言います。
いずれにせよ、どうも、リラックスの意味を、「脱力すること」であるという誤解をしているのではないかと思います。それでは、リラックスの大切な効果を逃してしまいます。

リチャード・バックの小説「かもめのジョナサン」では、かもめのジョナサン・リヴィングストンは、世間の信念や教義に従わずにそれを超えた生き方を選んだために群を追放されます。そして、一羽きりで過ごす長い月日が経ちますが、ある日、年老いたジョナサンが飛行していると、輝く2羽のかもめが近付いて来ます。ジョナサンは、曲芸飛行の秘術を駆使し、彼らを試しますが、彼らは楽々とジョナサンについてきます。微笑さえ浮かべて。

真のリラックスの姿が上手く描かれていると思います。
ジョナサンが曲芸飛行をしている時、そして、別世界からジョナサンを迎えにきたかもめ達がジョナサンに追随してみせた時、彼らはリラックスしていたのだと思います。

リラックスとは、本当はエネルギーを解放することです。解放されたエネルギーは我々を満たし、我々は活力を得ます。
そういうことを言った人は他にもいると思いますが、彼らは、これ以上の説明をしません。彼らは、真理をおぼろげには感じているのかもしれませんが、本当に理解していませんので、それ以上語れないのではないかと思います。
だから、それを聞いた我々は一層混乱してしまいます。
「では、どうすればリラックスできるのか?」
それが分からないのです。それを聞こうとしても、せいぜいが、筋肉を緊張させてから一気に弛緩しろとか、呼吸法や瞑想で心身を安らかにしろとか言った、やはり、脱力のための当たり前の方法でお茶を濁されてしまいます。

リラックスと、脱力は何の関係もありません。脱力しても良いのですが、どちらでも良いことです。最大の活動をしていても構いません。生死を分けた闘いの最中にリラックスするということもあると思います。
リラックスの真の意味であるエネルギーの解放を行うのに必要なことは、エネルギーをせき止めているものを消すということです。
エネルギーをせき止めているものとは、想像がつくかもしれませんんが、個人的な欲望という意味での自我です。
良い闘いをしている者に自我はありません。
脱力していても、自我があればエネルギーはせき止められています。
リラックスするためには、自我を消すことが必要ですが、それには、思慮や分別を離れ、万物をあるがままに容認すること、即ち、万事、自然の成り行きに任せることです。
それは易しいことでしょうか?
心を支配する能力を得た精神には容易いことです。
そして、その力を得る訓練は意外に簡単です。
朝食か昼食を抜くようにすれば良いでしょう。もちろん、その分、間食をしたり、残りの食事の量を増やしては意味がありません。
本当は、不要なものを求めない意思の力が得られれば良いだけなのですが、そのためには、食事を抜くのが最も簡単で確実です。
徳川家康に天下取りの秘訣を尋ねますと、家康は、同じ意味であるのですが、2つのことを言いました。それは、「身の程を知れ」と「上を見るな」です。しかし、誰が、身の程を知るほどの慎みを持っているでしょう?上を見ずにいられる人がいるでしょうか?家康は、出来もしないことを言ったのではないかと思いますが、よく考えてみれば、それで天下を取れるのですから、出来なくて当たり前なのでしょう。
しかし、食の慎みは、家康の言う心構えにも道を開くものと思えます。確かに食事を抜くのも難しいことです。しかし、世間や人生に本当にうんざりした時、不意にそれをしようという閃きが起こります。そして、あなたは真にリラックスし、エネルギーを解放する術を得るに違いありません。そうであればと思います。
少し食を慎めば、どんな驚くべきことが起こるかは、今後、色々書いていきたいと思います。





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