第一次世界大戦で、イギリスの将校ウィットルレイは部下の兵隊に聖書の詩篇91を暗唱させたところ、長い戦いで彼の隊からは戦死者は出なかったという。
詩篇91はやや長いが、同じようなものに詩篇23があり、こちらは短くジョセフ・マーフィーも暗唱を勧めていた。
著作権フリーの口語訳には、以下のものがある。
別に、キリスト教徒でなくても馴染めると思う。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私の魂をいきかえらせ、御名のために正しい道に導かれます。
たとえ私は死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたが私とともにおられるからです。あなたのむちと、あなたのつえは私を慰めます。
あなたは私の敵の前で、私のために宴を設け、私のこうべに油をそそがれます。私の杯はあふれます。
私の生きているかぎりは、必ず恵みと慈しみとが私につき従うでしょう。私はとこしえに主の家に住まうでしょう。

普通の人が分からないと思うのが「御名(みな)のために」ではないかと思う。
これは、割と単純な意味で、「神の名にかけて」ということだ。
良い教師が「教師の名にかけて生徒達を正しく導く」とか、相撲の横綱が「横綱の名にかけて堂々たる戦いをする」というのと同じだ。
つまり、名前に伴う責任を持って実行するという意味である。
よって、この詩では、「私は神であるのだから、必ずお前達に恵みを与える」ということだ。

キリスト教徒であったセールスマン、事業家の夏目史郎さんが、散々な人生であった35歳の時、神様に「これからの人生はあなたが責任を取って下さい」と祈ったら、神様はその名にかけて責任を取り、夏目さんは大成功したのである。

ちなみに、「あなたのむちと、あなたのつえは私を慰めます」を、何か神による懲罰のように思う人が多い。
学校での経験の影響かなあ(笑)。
あるいは、古いキリスト教の影響かもしれない。
鞭は外敵を追い払うためのもので、杖は変なところに行こうとしている羊をぽんぽんと叩いて「そっちじゃないよ」と教えるためのものだ。羊は馬鹿なので、手で叩いたり押さえたりしても分からないし、人間の手を恐れることもある。この点は我々も同じだ。神様も、我々が分かるようなことで合図を送るのである。

何度も取り上げたが、アメリカの女性作家で事業家のチン・ニンチュウは苦労の多い人生を歩んできたが、ある日、自分が羊になって羊飼いに面倒を見てもらう夢を見て、自分は神様にしっかり面倒を見てもらえば良いのだと気付き、安堵の涙が止まらなかったと言う(『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』より)。
法然や親鸞の「南無阿弥陀仏」だって、阿弥陀様に全部任せれば安心だという意味である。
引き寄せでは、神を潜在意識と言うことが多いが、潜在意識にまかせ切れば困ったことにはならない。
私も、昨日は潜在意識にまかせ切って何もかもうまくいって唖然としたが、そんな時ほど「わが力やない」と思って謙虚でなくてはならない。
尚、この「わが力やない」は、浄土真宗の僧が、死の間際に突然起き上がって言った言葉である。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる(チン・ニンチュウ)
(2)旧約聖書(新日本聖書刊行会)
(3)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(4)人生は思うように変えられる(ジョセフ・マーフィー)

陽気
AIアート3315
「陽気」
Kay

  
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