『聖処女』という日本語タイトルの1943年のアメリカ映画がある。
日本語タイトルは日本の映画配給会社がつけるものだが、下らないタイトルをつけるものだと思う。
原題は『The Song of Bernadette(ベルナデットの歌)』で、同名のフランツ・ヴェルフェルの小説を映画化したものだ。
この小説の翻訳は1950年に上下巻で出版されているが、現在はAmazonでも扱っていない。
だが、英語版ならKindle版が安価で読めるし、古書も入手出来る。
この映画は、フランスの聖女ベルナデット・スビルー(1844~1879)の生涯を描いたものだ。
ベルナデットは、フランスのルルドの泉を手で掘ったことで知られる。
当然、実在の人物で、その遺体は今でも誰でも見ることが出来る。亡くなって150年近くになるのに遺体が腐敗しない。ただ、手と顔には蠟が塗られている。

ところで、映画の中で、ベルナデットに、いじめと表現してもおかしくないほど厳しく接するヴォズーというシスター(修道女)がいる。
ヴォズーはどうしてもベルナデットを認めることが出来ない。つまり、ベルナデットが聖母マリアに会ったことは教皇も皇帝も認めているのに、彼女は絶対に認めなかった。
ヴォズーは、自分が聖母マリアに会えないのに、ベルナデットごときが会えたことを、どうしても認めるわけにはいかなかったのだ。
ヴォズーは、苦しむことこそ信仰と考えていた。そして、実際、彼女は誰よりも苦しい修行(断食などの苦行や勉強)や善行を行っていた。対して、ベルナデットは育った家が貧しかったとはいえ、その他は平穏で、教育も受けておらず、苦行も行っていない。つまり「苦しみ」が圧倒的に足りないとヴォズーは思っていた。そんなベルナデットが国中の注目を浴びていることへの嫉妬も強かった。
実際、ベルナデットはいつも穏やかで、自分でも「何の苦しみもない」と言っていた。
だが、ベルナデットは誰にも言わなかったが、結核性関節炎で脚の骨が破壊されていて、激しい脚の痛みを抱えていながら普通に修道女の勤めを果たしていたことを知ったヴォズーは、ベルナデットへの生涯の服従を誓う。

いかなる宗教も、「どうすれば神に目を向けてもらえるか」「どうすれば神の恵みが得られるか」の探求である。
ヴォズーは、それは苦しむことであると思い込んでいた。
ノーマン・ヴィンセント・ピールの世界的ベストセラーでロングセラーである『積極的考え方の力』の最後は「もっと神の力を求めようではないか」という言葉であり、本書は、その方法を丁寧に書いたものだが、案外に分からなかった人が多いと思う。そりゃそうだと私は思う。本一冊も使えば長過ぎるし難し過ぎる。
だが、ベルナデットを見れば一目瞭然だ。
それは、謙虚と思いやりだ。
しかし、それが難しい。
親鸞は「仏(神も同じだろう)に甘え切ること」と教えた。
時々引用する夏目史郎さんも、神様に「これからの人生はあなたが責任を取って」と甘え切ることにしたのだ。
アメリカの作家・事業家のチン・ニンチュウも「神様にしっかり面倒を見てもらえばいいだけ」と悟った。
だが、なかなか、本当にその結論に至ることが出来ない。
「神様、まかせるぜ」と言いつつ、本当はまかせていない者なら沢山いるが。
一度は徹底的に苦労する必要があるのかなあ・・・そんなことはないと思うのだが。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)The Song of Bernadette (English Edition)
(2)聖処女(字幕版) ※Amazon Prime Video
(3)ルルドへの旅(アレクシー・カレル)
(4)誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる(チン・ニンチュウ)

白い部屋
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「白い部屋」
Kay

  
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