我々は、理解し難いことを「類推」という形式で理解する。
例えば、電圧というのは目に見えないので理解し難いが、水圧に例えると目に見えるモデルに出来るので理解し易い。

そして、幸せになるためには是非、神というものを理解すべきだが、それは非常に難しい。なぜ難しいのかというと、規格外、常識外のことだらけだからだ。
そこで、イエスは、神のことを父と呼んで、神を父に例えた。
それを一番分かり易く言ったのが、新約聖書のルカ福音書15章の放蕩息子の話だ。
釈迦の話としても、法華経4章の信解品(しんげほん)の「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)のたとえ」の家出息子の話がある。
いずれも、神、あるいは、仏は、超大金持ちの父親として描かれている。

妙好人として知られる明治時代の農民、因幡の源左は、19歳の時、亡くなる直前の父に「これからは親様に頼れ」と言われたが、この親様は仏様のことである。
セールスマンで事業家の夏目史郎は、膨大な借金を抱えた35歳の時、神様に「これからの人生の責任はあなたが取って下さい」と祈り、それから成功への階段を駆け上った。
夏目史郎は、まさに福音書の放蕩息子で、自分勝手にやって散々な目に遭ったが、神様である父親の元に帰って幸せになったのだ。
だが、また好き勝手を始めたら、また大失敗するのだが。

もちろん、神や仏が父というのは例えであり、自分の本当の父とごっちゃにしてはならない。
イエスも「人間の父ですら子供には良いものを与えようとする。ましてや神がお前達に良いものを与えないはずがない」と言っている。しかも、神は何でも与えることが出来るのだ。人間の大富豪ですら、子供にかなり良いものを与えられるが、神はそれとは比較にならないほど豊かである。

福音書の放蕩息子や、法華経の「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)のたとえ」のように、一度は好きなようにやって酷い目に遭うのも良いだろう。それでこそ、超大富豪の父である神や仏に頼ろうという気になる。

仏を究極の強大な父として描いたのが『歎異抄』だ。
司馬遼太郎が「無人島に1冊だけ持って行くなら歎異抄」と言い、誰だったか大哲学者が「空襲で本が全部燃えても歎異抄が無事なら我慢する」と言った、親鸞の弟子、唯円の書だ。
「いくら仏様が力があって優しくても、甘え切るのは善くないだろう」と言うのに対し、親鸞は「いいんです!」と答えている。
人間の大金持ちの息子だって、お父さんを本当に信頼していたら、いわゆるバカ息子にはならないものだ。
パパは嫌なやつだと思っている息子がロクでもないことをやるのである。イエスの放蕩息子の話もそうである。

ジョセフ・マーフィーも、「自分を神様の可愛い息子、娘と思え」と言っている。
釈迦やイエスは、そのための教えを説いたのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)福音書(新約聖書) (岩波文庫 青 803-1)
(2)新共同訳 新約聖書
(3)サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳 (角川ソフィア文庫)
(4)現代日本語訳 法華経
(5)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(6)新装第二版 あなたも金持になれる(ジョセフ・マーフィー)
(7)新装第二版 眠りながら巨富を得る(ジョセフ・マーフィー)

下町の古い家
AIアート3309
「下町の古い家」
Kay

  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ