運を良くするとか、引き寄せを起こし易くするためには、徳を積む必要があるようだ。
では、徳を積むとはどういうことかだが、普通に思いつくのは善行だ。
だが、幸運や名誉のために善行をするというのも、どこかいやらしい。
そこで、こんな話がある。
江戸時代の観相家(顔や身体の相で占う占術家)であった水野南北が若い時、立派な観相家に「お前は近く死ぬ」と言われた。
怯えた南北は仏道に入ろうとするが、寺では彼を追い払う言い訳だったかもしれないが、「1年間、大豆だけを食べたら入門させる」と言う。南北は仕方なく、大豆だけを食べる生活をする。
それで月日が流れ、南北があの観相家に再会した時、観相家は「お前の死相がなくなっている。寺でも建てたのか?」と言う。そこで南北が大豆だけを食べている話をすると、観相家は、「食を節することは最大の徳だ」と言う。
つまり、食を慎みことは、寺を建てることに匹敵するほどの徳であるというわけだ。
南北は、食の慎みこそが最大の徳で、運勢は完全に食の多少で決まると主張した。

私も、少食粗食はやったことがあるが、私のはやり過ぎだったと思う。20日ほど絶食したり、数か月間、1日1個のカップヌードルの食事をしたりだ。
少食粗食はお勧めするが、何事もほどほどに行う必要がある。
私はある時期から、エマニュエル・スウェーデンボルグが天使に言われたように「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」が出来れば十分と思うようになった。

法然、親鸞は、念仏に優る徳はないと言ったのだと思う。
親鸞の教えが書かれた『歎異抄』には、「念仏に優る善行はなく、念仏を唱えても許されない悪行もない」と書かれている。
実は、その根拠は「経典に書かれているから」だが、その経典は、『浄土三部経』と言われる3つの教典と言われている。
だが、私は『華厳経』の『十地品』にあると思うが、今のところ、研究者の間でもはっきりしないところが多いものだ。
とはいえ、南無阿弥陀仏、アミタ、アミターバなど、自分の好む言葉で唱えれば、おそらく確実に効果がある。

昔、あるメチャクチャモテるミュージシャンの男性が、女の子はいくらでも寄って来るが、未成年には絶対に手を出さないと決めていたらしい。そんなふうに、放埓(勝手気まま)に振る舞うことのないよう自分に制限をかける者には神が力を与える。
モテなくても一向差し支えなく、たとえば女子高生には手を出さないと勝手に決めれば同じである。
一方で、念仏にはそんな制限は全くない。
ちなみに、水野南北の少食の教えもそうで、食さえ慎めば何をしても問題ない。
どれでも同じである。1年365日続けば。
私など、プランク1年まで後わずかで、それでどんな願いも叶うのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)華厳経入門 (角川ソフィア文庫)
(4)修身録(水野南北)

小さな心臓の音
AIアート3190
「小さな心臓の音」
Kay

  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ