「私は誰か?」という問は、精神世界ではラマナ・マハルシが提示したことで特に関心を持たれたが、大昔からの人類の問でもある。
「私は誰か?」の答は、「私はこれこれである」という「自覚」であることは同意するのではないだろうか?
だから「自覚」さえあれば、どんな答も間違いではない。
問題は、その「自覚」が、どれほどリアルで、どれほど純粋で、どれほど揺るぎないかだ。
「自覚」がリアルであるほど、純粋であるほど、揺るぎないほど、私は「それ」なのである。
リアル、純粋、揺るぎない・・・一言で言えば、「疑いようがない」ということだ。

たとえば、「私は〇〇社の社員である」「私は〇〇校の学生である」はどうだろう?
そんなものが疑いようがないほど自分だろうか?
夢の中では、全く違う会社の社員だとか全く違う学校の学生だと思っていることもある。
それどころか、野球選手だったり王様だと思っていることもある。
「私は日本人である」「私は25歳である」「私は身長170cmである」
これらも同じだ。
嘘ではないだろうが、それほどのリアリティはないのではないか?
つまり、「疑いようがないほどの真実」というほどではなく、せいぜい「嘘ではない」程度だ。

そして、いよいよ核心となる。
最も優れた答の候補が「私は生きている」である。
しかし、それは「肉体的に生きている」と混同し易い。
だから「大地は生きている」「森は生きている」という美しい言葉との統一が難しい。
私が病院に、ある死期が近い患者を訪問したら、その人にこう言われた。
「あら、私のお葬式に来てくれたの?」
「誰の葬式だよ?」
「私のよ」
「あなた、死んでるの?」
「そうよ」
病気が進んで思考がおかしくなっているとも言えるが、実は、いつも以上に意識がしっかりしているように感じた。
あなたも、自分が死んだ夢を見たことがあるかもしれない。
そんな夢では、意識ははっきりしている。
ある未開民族では今もそうらしいが、昔は、生と死の区別がそれほどはっきりしていない民族、人々は多かったと思う。
『バガヴァッド・ギーター』にも書かれている。「死んでも生きている」と。

では、本当に「生きている」とはどういうことか?
それは「私は存在する」ということだ。
これだけは疑うことが出来ない。疑いようがない。
だから、「私は誰か?」と問うなら、「私は存在する(私は在る)というのが私」としか言えない。
つまり、「私は存在する(私は在る)」という自覚が「私」である。
そして、真実の「私」は「神」である。

ラマナ・マハルシが「『私』は神の純粋な名。最も偉大なマントラ(真言)」と言った通りである。
だから、心で「私、私、私」と言えば神になる。
ジョセフ・マーフィーが「最も偉大な精神の教師」と言ったネヴィル・ゴダードは「存在の自覚が神」とはっきり本に書いている。
ニサルガダッタ・マハラジは「常に存在の自覚にしがみつけ」と言った。何なら「私は在る」をマントラにしても良いと言い、これが最上のマントラであると言った。
私は、心で「私は在る」と言った時に感じる微妙な感覚を味わうことがある。

どの方法でも良いが、熱心に励めば神になるだろう。
「彼は神を探しに行って、神になって戻ってきた」

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)
(2)アイ・アム・ザット 私は在る ~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~
(3)あるがままに 改訂版 ―ラマナ・マハルシの教え―
(4)バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

マドンナ・リリー
AIアート3139
「マドンナ・リリー」
Kay

  
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