江戸末期の神道家、黒住宗忠は、ハンセン氏病に罹った武士に、1日1万回「ありがたい」を声に出し、心を込めて唱えるよう指示し、それで武士は1週間で全快したという。
ただ、宗忠は、普段から、まずは口先だけでも良いから「ありがたい」と唱えることを勧めていた。
つまり、切羽詰まった時に1万回唱える荒行より、普段から行うことの方が大事であると思う。
法然も、普段から念仏を、なるべく多く、声に出して唱えるよう教えていた。
我々も、彼らの言う通りにすれば大きな報いを受けることが出来るかもしれない。
これらの場合、「ありがたい」や「南無阿弥陀仏」は一種のマントラ(真言)、呪文のようで、しかも、声に出して唱えるものである。
だが、もっと優れたマントラは「私」である。そして、これは声に出さず、心で唱えるものである。
なぜなら、「ありがたい」や「南無阿弥陀仏」は、他のほとんどの言葉と比べ良い想念を起こす言葉で、集中して唱えれば、想念は限りなく減少する。良い言葉とは、想念の連鎖を起こさない言葉であり、優れた効果というのは、想念の消失によって起こる。
ところが、「私」であれば、1回で想念を消し、少なくとも確実に弱め、継続する間、ずっとそうである。
そしてこれは、心で唱えるだけで、心の中の想念を退治するのである。
理屈で考えても、何とも合理的である。
「ありがたい」がハンセン氏病を治癒したことを述べたが、「南無阿弥陀仏」に利益があるのかというと、法然も親鸞も、明らかにあることを記している。
法然によれば、これを唱える者を仏が守るからという原理であり、親鸞も基本的には同じであるが、人間の不幸の原因である想念の連鎖を止める行いをし易いよう、全能の魂が守るというのは自然であり、これは法然や親鸞の言う通りと思う。
宗忠の「ありがたい」も同じ理屈であり、あらゆるマントラの効能も同じと思われる。
では、「私」と唱えれば良いことがあるか、たとえば、お金が儲かるか、健康になるか、モテるかというと、困るのであるが、凡人にとっては重要なことだろう。だが、「私」と唱えることは、自分が神であることを思い出すことである。神にとって、そういったことは問題にならない。
これに関しては、こんな話が参考になるかもしれない。
親鸞が、戒律を破ることである結婚をしたいと言った時、師の法然は「念仏を唱え易くなるなら問題ない」と言ったという。
ところが「私」は、結婚しようがすまいが、お金があろうがなかろうが、まるで問題にならない。
ただ、たとえば、お金がないという不安は消えるし、不安が消えれば問題も消える。結果としてお金が出来ることもある。
岡田虎二郎が、金に窮していると言う男に、「金?腹に力がつけば金はいくらでも出来ますよ」と言ったが、腹に力がつくとは、想念が消えることである。
よって、「私」と唱えれば、必要ならば金はいくらでも出来るかもしれない。
こんな話がある。想念を消すことを感覚的に掴んだデヴィッド.R.ホーキンズ博士は経営する病院の規模がどんどん大きくなってしまった。それは必要だったのかもしれないが、本人は別に嬉しくも何ともないのである。
何か知らんが良くなると思う程度で、心で「私、私、私」と唱えれば、必然的に幸運に恵まれるとは思うが、それよりも、なるべく多く唱えるべきである。
『スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました』で、アズサが「生活費程度になればいい」と思いながら、無欲に1日25匹のスライムを楽々倒したら、やがて世界最強になったお話がまさにピッタリである。300年もかからないが、300年かけるつもりでやれば、非常に良いだろう。300年も一瞬である。
私など、アズサの真似だと思うと結構楽しいのである。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(2)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) K
(3)黒住宗忠 (人物叢書 新装版)
(4)<わたし>(デヴィッド・R・ホーキンズ)
(5)スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました ※Amazon Prime Video dアニメストア

AIアート2913
「魔女の気持ち」
Kay
ただ、宗忠は、普段から、まずは口先だけでも良いから「ありがたい」と唱えることを勧めていた。
つまり、切羽詰まった時に1万回唱える荒行より、普段から行うことの方が大事であると思う。
法然も、普段から念仏を、なるべく多く、声に出して唱えるよう教えていた。
我々も、彼らの言う通りにすれば大きな報いを受けることが出来るかもしれない。
これらの場合、「ありがたい」や「南無阿弥陀仏」は一種のマントラ(真言)、呪文のようで、しかも、声に出して唱えるものである。
だが、もっと優れたマントラは「私」である。そして、これは声に出さず、心で唱えるものである。
なぜなら、「ありがたい」や「南無阿弥陀仏」は、他のほとんどの言葉と比べ良い想念を起こす言葉で、集中して唱えれば、想念は限りなく減少する。良い言葉とは、想念の連鎖を起こさない言葉であり、優れた効果というのは、想念の消失によって起こる。
ところが、「私」であれば、1回で想念を消し、少なくとも確実に弱め、継続する間、ずっとそうである。
そしてこれは、心で唱えるだけで、心の中の想念を退治するのである。
理屈で考えても、何とも合理的である。
「ありがたい」がハンセン氏病を治癒したことを述べたが、「南無阿弥陀仏」に利益があるのかというと、法然も親鸞も、明らかにあることを記している。
法然によれば、これを唱える者を仏が守るからという原理であり、親鸞も基本的には同じであるが、人間の不幸の原因である想念の連鎖を止める行いをし易いよう、全能の魂が守るというのは自然であり、これは法然や親鸞の言う通りと思う。
宗忠の「ありがたい」も同じ理屈であり、あらゆるマントラの効能も同じと思われる。
では、「私」と唱えれば良いことがあるか、たとえば、お金が儲かるか、健康になるか、モテるかというと、困るのであるが、凡人にとっては重要なことだろう。だが、「私」と唱えることは、自分が神であることを思い出すことである。神にとって、そういったことは問題にならない。
これに関しては、こんな話が参考になるかもしれない。
親鸞が、戒律を破ることである結婚をしたいと言った時、師の法然は「念仏を唱え易くなるなら問題ない」と言ったという。
ところが「私」は、結婚しようがすまいが、お金があろうがなかろうが、まるで問題にならない。
ただ、たとえば、お金がないという不安は消えるし、不安が消えれば問題も消える。結果としてお金が出来ることもある。
岡田虎二郎が、金に窮していると言う男に、「金?腹に力がつけば金はいくらでも出来ますよ」と言ったが、腹に力がつくとは、想念が消えることである。
よって、「私」と唱えれば、必要ならば金はいくらでも出来るかもしれない。
こんな話がある。想念を消すことを感覚的に掴んだデヴィッド.R.ホーキンズ博士は経営する病院の規模がどんどん大きくなってしまった。それは必要だったのかもしれないが、本人は別に嬉しくも何ともないのである。
何か知らんが良くなると思う程度で、心で「私、私、私」と唱えれば、必然的に幸運に恵まれるとは思うが、それよりも、なるべく多く唱えるべきである。
『スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました』で、アズサが「生活費程度になればいい」と思いながら、無欲に1日25匹のスライムを楽々倒したら、やがて世界最強になったお話がまさにピッタリである。300年もかからないが、300年かけるつもりでやれば、非常に良いだろう。300年も一瞬である。
私など、アズサの真似だと思うと結構楽しいのである。
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(1)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(2)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) K
(3)黒住宗忠 (人物叢書 新装版)
(4)<わたし>(デヴィッド・R・ホーキンズ)
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