昨夜ご紹介した『法華経』の『長者窮子のたとえ(ちょうじゃぐうじのたとえ)』(信解品第四)の窮子が我々である。
窮子(ぐうじ)とは、「貧しく困窮している子、または自己の可能性に気づかず自信を失っている状態」という意味だ。
そのお話では、小さい時に親からはぐれ、貧しく育ち、奴隷のように働いて生きてきた窮子である男は、宮殿のような家に住む大富豪を見たら、その大富豪は自分が近寄ってはいけない相手だと思って恐れ逃げ出し、それがまさか自分の父親だと気付かない。
この窮子に必要なことは、その大富豪が自分の父親であると認めることだけで、それが出来た時、窮子だったその男は、大富豪の財産全てを受け継ぐ。
この大富豪は仏のたとえで、窮子は我々のことである。
キリスト教で、神を父と呼ぶのと全く同じだ。
尚、『老子』『荘子』では、神のような存在を人格化せず「道」と言い、それを「母」にたとえることが多いが、仏教やキリスト教と本質で違いはないと思う。

アメリカの女性事業家・作家であるチン・ニンチュウは、ある夜、自分が、羊飼いに世話をしてもらう羊になった夢を見て、目覚めた時、自分はただ、神様にしっかり面倒を見てもらえばいいだけだと気付いて、安堵と感激の涙を流したと言う。
キリスト教では、神のことを羊飼いにたとえることもよくある。
旧約聖書の詩篇23に、羊飼いである神と羊である我々の関係が端的に示され、これを繰り返し読むとニンチュウのような悟りが得られると思う。
この詩篇23の中で、神である羊飼いが鞭と杖を使うことを嫌がる人もいるだろうが、無知な羊が崖や狼のいるところにどうしても行こうとしたら、羊飼いは止む無く鞭を使うのは当然だ。あなただって、下らないことをして痛い目にあったことは何度もあるだろう。
イエスが語った放蕩息子のたとえでも、大富豪の二人兄弟の次男は、父(神)の元を離れて散々な目に遭ったおかげで父の元に帰ろうと思ったのだ。
実家暮らし最高と言うのではなく(笑)、現実世界ではどんな暮らしをしようが構わないが、本当の父である神から離れず、神にしっかり面倒を見てもらえば良いのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳 (角川ソフィア文庫)
(2)誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる(チン・ニンチュウ)
(3)新共同訳 新約聖書
(4)新共同訳 旧約聖書
(5)老子 (岩波文庫)
(6)新釈 荘子 (PHP文庫)
(7)歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

神の愛娘
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「神の愛娘」
Kay

  
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