武士道、騎士道が難しく語られることがある。
だが、私は、この2つは似たようなもので簡単に語ることが出来ると思う。

とりあえず武士道ということで述べる。
武士道が生まれたのは江戸時代以降だ。
武士の仕事は戦(いくさ)で戦うことである。
しかし、徳川幕府が出来て太平の世になり、戦はなく、武士の仕事がなくなった。
普通なら失業であるが、武士は特権階級の地位が与えられ、働かなくても税金で食べていけた。
戦国を生き抜いた武士の家系は優秀で、武士は地頭が良く、しかも勉強するのでさらに頭が良くなり、さらに、暇で考える時間があるので、働きもせず食べていることに後ろめたさを感じた。
この後ろめたさを解消しようとし、思いついた結論が「せめて立派な人間になろう」だった。
この、

働かずに食べられる後ろめたさを解消するた、せめて立派な人間であろうとすること

が武士道である。
もっと端的には、

暇だから、せめて立派な人間になる努力をしよう

というのが武士道である。
私は、以前は「何と甘ったれた考え」と思っていたが、今の金持ちのボンボンが「せめて立派な人間になろう」と思ったら非常に殊勝・奇特と言えることを考えたら、この武士道は立派なもので、実際、なかなかの文化を作った。

西洋の騎士も同じようなものと思う。
騎士道精神が生まれるのは、戦争の多い国ではなく、ある程度平和になった時代や場所だ。
そして、騎士は特権階級で、税金で生活出来たが、やはり後ろめたいので、せめて立派な人間になろうとし、やっぱり、なかなかの文化を作った。

フリードリヒ・フーケの『ウンディーネ』(翻訳のタイトルは『水妖記』『水の精』等)や、それを基にしたジョン・ジロドゥの戯曲『オンディーヌ』に、フルトブラントやハンスという騎士が登場するが、あれが普通の騎士であるかどうかは分からないが、騎士の特徴をうまく描いていると思う。
彼らは、国王から立派な城を与えられた騎士で、自分を磨くために冒険の旅を楽しんでいるのである。ここらに、引きこもり勝ちな日本の武士との違いが見られるが、共に向上心が見られる。

「特権で食べさせてもらえて申し訳ないので、せめて立派な人間になる努力をする」

これが武士道、騎士道であると私は思う。
しょーもないと言えばそうだが、それでも、立派な人間になろうと真面目に考えるのは良いことである。
だから、確かに、学ぶべき点も多いのである。
そして、立派な人間になろうという志の薄い武士や騎士は落ちぶれ、消えていった。
ここに、重要な引き寄せの秘訣が見られる。

特権がなくても、「特権が与えられて申し訳ないので、せめて立派な人間になろう」と思ったら特権的立場になってしまう。
たとえば、会社の中で、「特権的立場で、働かなくても給料がもらえるのは申し訳ないので、せめて立派な人間になろう」と思うと、本当にそんな立場になるのである。
昔の日本は、そんな人間が沢山いたので、窓際族も沢山いたのである。
しかし、そんな人間がいなくなったので、窓際族がいなくなり、結果、日本経済も衰退した。
窓際族が沢山いる国が経済が強い国であり、窓際族が沢山いる会社が強い会社である。

「暇だからせめて立派な人間になろう」と思ったら、武士的・騎士的に暇になるのである。
「せめて」立派な人間になろう程度で良い。
その方が謙虚で立派だ。自分がそんなに立派な人間になれると思うのは傲慢なことである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)水の精~ウンディーネ~(フケー)
(2)オンディーヌ(ジロドゥ)
(3)アーサー王物語(トマス・ブルフィンチ)
(4)保元物語・平治物語
(5)平家物語
(6)武士道(新渡戸稲造)
(7)葉隠 (知的生きかた文庫)

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