法然、親鸞の念仏の原理を、『バガヴァッド・ギーター』の中に見つけることが出来る。
それは、『バガヴァッド・ギーター』の第2章で、クリシュナ神が懇切丁寧にアルジュナに説き聞かせている。
それは名文であるが、長いので簡単に言う。

まず、行うべきことは、五感を完全に遮断し、外界を知覚しないことだ。
クリシュナ神はこのことを、「亀が甲羅の中に手足を引っ込めるように、五感を内部に引っ込めろ」と言う。
もちろん、物質的な意味で五感を遮断して生きることは出来ない。
これに関しては、荘子が「視線を自然にし(つまり穏やかに見ること)、見たものに関し、思慮分別せず、是非好悪の判断をしない」と述べているのと同じ意味だ。
クリシュナ神も「見ても好悪の感情を持たない者が真に優れた者である」と言っている。

しかし、言うまでもなく、そんなことは難しい・・・いや、不可能だ。
コリン・ウィルソンは、「心身が疲れ切っていても、好みのタイプの女性(あるいは男性)がヌードでやってきたらたちまち元気になる」ということを肯定的に捉え、そのように元気になるべきだと言った。
しかし、クリシュナ神や荘子は、そんなものを見ても心動かされてはならないと言う。
また、「好みのタイプがヌードで来たら」という喜ばしいこと(笑)だけでなく、嫌いで嫌いで仕方がない、憎くて憎くて仕方がない者を見ても、完全に平静でいなくてはならないと、クリシュナ神や荘子は言うのだ。

法然、親鸞も、「そんなこと(クリシュナ、荘子の教え)無理派」である。
親鸞は自分の煩悩の深さを痛感しており、実際、肉食、妻帯をしている。
そして、法然は、親鸞が嫁をもらいたいと言った時に賛成している。

だが、クリシュナ神は貴重なヒントをアルジュナに与えている。
それが、2章61節だ。

肉体のあらゆる感覚を遮断し、意識を私(クリシュナ神)に向けよ。

念仏とは、「肉体のあらゆる感覚を遮断し」というところを全く問題とせず、意識を阿弥陀仏に向けることだ。
そして、クリシュナ神にしろ、阿弥陀仏にしろ、至高者に意識を向ければ、やがては感覚からの影響を受けなくなる。
宗教的には、クリシュナ神と阿弥陀仏は全くの別物であるが、同じと言って良いと私は思う。
インドでは、庶民が「クリシュナ」の名を唱えることが行われており、ラマナ・マハルシの弟子のプンジャジは、毎日「クリシュナ」を4万回唱え、やがて奇跡が起こった。
また、最も人気が高い神である「ラーマ」の名を唱える者も多い。
日本でも、天照大神の名を唱える十言の神呪(アマテラスオホミカミの十語)という行がある。

つまり、最も簡単に至高者に意識を向ける方法が、称名念仏・・・つまり、「南無阿弥陀仏」を唱えることで、言ってみれば「阿弥陀仏」だけで良いが、「阿弥陀仏に一切をまかせる」という意味を明確に込めた「南無阿弥陀仏」がさらに良いと思う。
もちろん、自分が本当に親しみを感じる神仏の名で良いのである。
だが、少なくとも阿弥陀仏に嫌悪感を持つ者はいないだろうから、「南無阿弥陀仏」で間違いないとは思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)覚醒の炎 ~プンジャジの教え~
(4)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(5)新釈 荘子 (PHP文庫)
(6)ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力

快晴
AIアート1673
「快晴」
Kay

  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ