人間が最終的に求めるのは安心だ。
闘争の興奮こそ生きている証だと思う者もいるだろうが、それも、そこに安心の幻影が見えるからなのだ。
安心がない者ほど、狂ったように安心を求めてしまうのである。

私は、安心する夢を何度か見たことがある。
偽物の安心ではなく、本当の安心だ。
見たまま書くと、大体が死ぬ夢でしかないので、少し翻訳して書くとこうだ。

「今日で終わりです。お疲れ様」
という声が聞こえる。
私は別に驚くこともなく、「ああ、そうか」と思う。
今日で、この世界にいるのも終わりで、別のところに行く。
正確には、今後、好きな時に行けるのだが、まだ馴染が残るこの世界の余韻を味わっている感じだ。
終わると分かれば、楽しかったと思う。
ここの人達と別れるのは、少し寂しいと感じないでもないが、それは、本で読む程度の別れの寂しさだ。

最後は、遊んでいいことになっている。
1人の少女がふわふわ浮かんでいる。彼女に適当についていく。
時々、自分と彼女の区別がつかなくなる。
「お前は俺の理想だ」
と言うと、彼女の返事はないが、「了解した」といった想いが伝わってくる。
彼女は地上に降り、1人の老婆と仲良く会話している。
そして、彼女は小さな杯を老婆から受け取る。中は透明な酒のようだ。
私も続いて降りると、老婆は私にも杯を渡す。
2人で仲良く杯を飲み干すと、私が先に建物の中に入る。彼女もやがて来るだろう。
そこで儀式が行われる。
いよいよ、この世界からおさらばして、次の世界に行く実感が湧き高揚する。

どうすれば、こうなるかは昔聞いた。
念仏を唱えなさいということだ。
念仏とは言っても、好きな神仏の名を唱えるので良いのだが。
インドで言うナーマスマラナというやつだ。
抵抗がなければ、南無阿弥陀仏が良いと思う。実際、よくチューニングされたコマンドだ。
念仏をずっと唱えていると、良い夢でも見ているように、都合の良いことばかりが起こる。
だが、やっぱり唱えることを忘れるので、ちゃんと辛い目、苦しい目に遭う。
それに飽きてきたら、そろそろ次の世界に行けば良いのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(4)ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力(サティヤ・サイババ)
(5)解脱の真理(マード・マクドナルド・ベイン)

渚
AIアート1671
「渚」
Kay


  
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