「IN GOD WE TRUST」は、アメリカ合衆国の公式な標語である。
この訳として、一般には「我々は神を信じる」とされることが多いが、それでは、「神の存在を信じる」ということと誤解される。
だから、もっと正しくは「我々は神を信頼する」とした方が良いと思う。
この標語は、「南無阿弥陀仏」の念仏と似ている。
「南無阿弥陀仏」の意味は、「阿弥陀如来を信頼して全てまかせる」という意味として良いだろう。
アメリカの標語の神は、旧約聖書の神で、モーセの前に現れた神だ。
キリスト教徒なら、それは誰でも知っているのかもしれないが、ただ神と言ったら、どの神か分からない。
神の中には、善い神もいれば、邪悪な神もいるかもしれない。
だから、モーセに現れた神も「私のみを神としろ」と言い、他の神を神としてはならないと述べている。
イスラム教では、神の名はアッラーと決まっているので分かり易い。
ユダヤ教、キリスト教の神も、名はあるらしいが、その名が言われることは、特にキリスト教では滅多にないと思う。
そして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は、恐い神であり、罰する神である。
ところが、阿弥陀如来は、無限に慈悲深い仏で、罰を与えることは決してない。
戒律も全くない。
他の仏や神を敬うことについても、何も言わない。
このことについては、『バガヴァッド・ギーター』の中で、クリシュナ神は、「私以外の神に祈ることは正しくはないが、それでも良い」としている。どの神に祈っても、自分(クリシュナ)に祈ることと同じだからということだ。
「IN GOD WE TRUST」の「我々は信頼する」に対し、「南無阿弥陀仏」は主語はないながら、省略された主語は「我々」ではなく、明らかに「私」だ。
他の者が、どの神仏を信仰しようが、それは本人の自由で、自分が「南無阿弥陀仏」と唱えるからと言って、他の者にもそれを強要することは出来ない。
「IN GOD WE TRUST」がアメリカ合衆国の公式標語になったのは1956年だが、この標語がアメリカを強くしただろうか?
この標語に対する賛否は、アメリカ国内でもあるらしい。
個人的には、どの神か特定しなかったことと、「我々は信じる」としたことが、良くなかったと思う。
「我々」と言っても、アメリカ人にだっていろいろな信仰があり、また、無神論者もいるだろう。
そこから考えても、この「神」が何を指すのかは曖昧だ。
「南無阿弥陀仏」は言ってみれば、「IN AMIDA(AMITABHA) I TRUST」だ。
いや、「I take refuge in Amida」だという話もあるが、これは「阿弥陀に逃れる」という意味で、雰囲気はあるが、よく分からない。
私は別に、阿弥陀如来を、固定したキャラクターだと思っていない。
至高の存在の象徴と考えて良いと思う。
親鸞だって、「本当は、仏に、大きさ、形、色があるわけでない」と言っていたようだ。
悪い仏がいるという話は聞いたことがないが、何か名前を付けないと庶民には分かり難い。
阿弥陀仏は、インドの古い言葉で「アミターバ」で、これが「無限の光」という意味であり、善い至高の存在であることを、よく表している。
ただ、観音菩薩を信仰する人なら「南無観世音菩薩」で良いし、弥勒菩薩なら「南無弥勒菩薩」である。
肝心なことは、自分をはるかに超えた善なる至高の存在に意識を向けることだ。
その対象として、阿弥陀仏や観世音菩薩や弥勒菩薩を個別キャラとして考えたのであると思う。
「IN GOD WE TRUST」は、もしかしたら、邪神崇拝を起こしたり、他の人の信仰を気にするなど、余計なものが入る危険があるかもしれない。
世界的ベストセラー、ロングセラーである『積極的考え方の力』の中で、著者の牧師ノーマン・ヴィンセント・ピールは、至高者としての神に意識を向ける方法として、聖書の特定の言葉を唱えることを薦めた。
「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでも出来る」
「もし神が我々の味方であれば、誰が我々に敵し得ようか」
こちらの方が、「IN GOD WE TRUST」より念仏に近いと思うが、自力を頼む部分があったり、信仰を同じくするチームを前提にしたところは問題が起こるかもしれない。
そこにいけば、論理的にも、念仏は最上であると思われる。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(4)積極的考え方の力(ノーマン ヴィンセントピール)

AIアート1669
「生命力」
Kay
この訳として、一般には「我々は神を信じる」とされることが多いが、それでは、「神の存在を信じる」ということと誤解される。
だから、もっと正しくは「我々は神を信頼する」とした方が良いと思う。
この標語は、「南無阿弥陀仏」の念仏と似ている。
「南無阿弥陀仏」の意味は、「阿弥陀如来を信頼して全てまかせる」という意味として良いだろう。
アメリカの標語の神は、旧約聖書の神で、モーセの前に現れた神だ。
キリスト教徒なら、それは誰でも知っているのかもしれないが、ただ神と言ったら、どの神か分からない。
神の中には、善い神もいれば、邪悪な神もいるかもしれない。
だから、モーセに現れた神も「私のみを神としろ」と言い、他の神を神としてはならないと述べている。
イスラム教では、神の名はアッラーと決まっているので分かり易い。
ユダヤ教、キリスト教の神も、名はあるらしいが、その名が言われることは、特にキリスト教では滅多にないと思う。
そして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は、恐い神であり、罰する神である。
ところが、阿弥陀如来は、無限に慈悲深い仏で、罰を与えることは決してない。
戒律も全くない。
他の仏や神を敬うことについても、何も言わない。
このことについては、『バガヴァッド・ギーター』の中で、クリシュナ神は、「私以外の神に祈ることは正しくはないが、それでも良い」としている。どの神に祈っても、自分(クリシュナ)に祈ることと同じだからということだ。
「IN GOD WE TRUST」の「我々は信頼する」に対し、「南無阿弥陀仏」は主語はないながら、省略された主語は「我々」ではなく、明らかに「私」だ。
他の者が、どの神仏を信仰しようが、それは本人の自由で、自分が「南無阿弥陀仏」と唱えるからと言って、他の者にもそれを強要することは出来ない。
「IN GOD WE TRUST」がアメリカ合衆国の公式標語になったのは1956年だが、この標語がアメリカを強くしただろうか?
この標語に対する賛否は、アメリカ国内でもあるらしい。
個人的には、どの神か特定しなかったことと、「我々は信じる」としたことが、良くなかったと思う。
「我々」と言っても、アメリカ人にだっていろいろな信仰があり、また、無神論者もいるだろう。
そこから考えても、この「神」が何を指すのかは曖昧だ。
「南無阿弥陀仏」は言ってみれば、「IN AMIDA(AMITABHA) I TRUST」だ。
いや、「I take refuge in Amida」だという話もあるが、これは「阿弥陀に逃れる」という意味で、雰囲気はあるが、よく分からない。
私は別に、阿弥陀如来を、固定したキャラクターだと思っていない。
至高の存在の象徴と考えて良いと思う。
親鸞だって、「本当は、仏に、大きさ、形、色があるわけでない」と言っていたようだ。
悪い仏がいるという話は聞いたことがないが、何か名前を付けないと庶民には分かり難い。
阿弥陀仏は、インドの古い言葉で「アミターバ」で、これが「無限の光」という意味であり、善い至高の存在であることを、よく表している。
ただ、観音菩薩を信仰する人なら「南無観世音菩薩」で良いし、弥勒菩薩なら「南無弥勒菩薩」である。
肝心なことは、自分をはるかに超えた善なる至高の存在に意識を向けることだ。
その対象として、阿弥陀仏や観世音菩薩や弥勒菩薩を個別キャラとして考えたのであると思う。
「IN GOD WE TRUST」は、もしかしたら、邪神崇拝を起こしたり、他の人の信仰を気にするなど、余計なものが入る危険があるかもしれない。
世界的ベストセラー、ロングセラーである『積極的考え方の力』の中で、著者の牧師ノーマン・ヴィンセント・ピールは、至高者としての神に意識を向ける方法として、聖書の特定の言葉を唱えることを薦めた。
「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでも出来る」
「もし神が我々の味方であれば、誰が我々に敵し得ようか」
こちらの方が、「IN GOD WE TRUST」より念仏に近いと思うが、自力を頼む部分があったり、信仰を同じくするチームを前提にしたところは問題が起こるかもしれない。
そこにいけば、論理的にも、念仏は最上であると思われる。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
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