念仏とは、絶対的な存在に自分の運命の一切を託すことである。
「南無阿弥陀仏」というのは、その1つであると言うに過ぎない。
私が、まさに念仏で運命を変えたと思うものに、世界的セールスマンだった夏目志郎さんのお話がある。
彼は1950年代か1960年代だと思うが、中国から日本に大金を持ってやって来た。日本で、ビジネスで成功を収めるためである。
しかし、詐欺に遭って多額の借金を背負うという羽目になってしまう。
そろそろ頭髪も薄くなってきたのに、先の見えない苦しい人生を送る中で彼はクリスチャンになったのだが、ある時、神にこう祈ったらしい。
「これまでの人生の責任は私にあります。しかし、これからの人生はあなたに責任を取って欲しい。私ももう35歳です。一生をかける仕事を下さい」
すると、彼はそれを奇跡と言うが、その翌日、百科事典の会社がセールスマンとして彼をスカウトに来た。
そこから彼のセールスマンとしてのサクセスストーリーが始まる。
私は、このお話こそ念仏の教えそのものであると思う。
「私の人生の責任をあなた(神)に取って欲しい」
私も最初、夏目さんの本でこれを見た時は違和感を感じたが、これ以外に正解はないと思う。
「南無阿弥陀仏」というのも、阿弥陀仏という絶対的な存在に全ておまかせします・・・運命の下駄を預けてしまうという意味だ。
仏教においては、この「運命」は、「死後に極楽浄土に行けるかどうか」を指すようであるが、法然も親鸞も、明らかに、現世を含めた運命を対象にしていることは明らかである。
ところが、ほとんどの人は、運命は自分の力で切り開くものだと思っているし、そう考えることが立派な人間の証と思っているのだろう。
しかし、自分に運命を決めることなんて出来るのだろうか?
人生なんて、友達のアイドルオーディションについていって、自分がアイドルとしてスカウトされるようなものだ。
こんな話がある。
ある男が、やや政情不穏な国の中を列車で移動していた時だった。
彼は乗っていた車両のトイレに行ったが、使用中だったので、別の車両のトイレに行く。
その時、列車が空爆に遭い、彼が元居た車両が爆破された。
トイレに行かなかったら、そして、トイレが使用中でなかったら、彼は死んでいたのである。
彼は、人生とは偶然の積み重ねであると痛感して人生観を変え、そして、成功した。
「人生とは偶然の積み重ねである」
つまり、自分の力でどうこう出来るものではない。
言い換えれば、自分の力など、ちっぽけなものである・・・いや、無に等しいのである。
それなら、夏目さんのように、神に全てまかせるしかない。
それなら、自主的に神にまかせるべきではないだろうか?
どうせまかせるしかないのだが、それなら、積極的に神様に下駄を預ければ、心も安定するのではないか?
引き寄せの神髄とは、絶対的な存在に全てを託し、自分が邪魔をしないことなのだと思う。
それで言えば、法然や親鸞は、引き寄せということにおいても、今日でも最高レベルのことを教えていたのだと思われる。
神道では、黒住宗忠の「まることの教え」、つまり、神様にまるごとおまかせするという教えが、念仏と全く同じと思う。
阿弥陀仏といい、黒住宗忠が信仰した天照大神といい、古い物語に出て来る仏様や女神ではなく、絶対的な至高の存在である。
共に太陽神であるという性質もあると思う。
しかし、心を向ける対象として、伝説の阿弥陀仏や天照大神を想うのは全く構わないと思う。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)三帖和讃(現代語版) ※親鸞の『現世利益和讃』収録
(4)黒住宗忠 (人物叢書 新装版)

AIアート1664
「ゆらめき」
Kay
「南無阿弥陀仏」というのは、その1つであると言うに過ぎない。
私が、まさに念仏で運命を変えたと思うものに、世界的セールスマンだった夏目志郎さんのお話がある。
彼は1950年代か1960年代だと思うが、中国から日本に大金を持ってやって来た。日本で、ビジネスで成功を収めるためである。
しかし、詐欺に遭って多額の借金を背負うという羽目になってしまう。
そろそろ頭髪も薄くなってきたのに、先の見えない苦しい人生を送る中で彼はクリスチャンになったのだが、ある時、神にこう祈ったらしい。
「これまでの人生の責任は私にあります。しかし、これからの人生はあなたに責任を取って欲しい。私ももう35歳です。一生をかける仕事を下さい」
すると、彼はそれを奇跡と言うが、その翌日、百科事典の会社がセールスマンとして彼をスカウトに来た。
そこから彼のセールスマンとしてのサクセスストーリーが始まる。
私は、このお話こそ念仏の教えそのものであると思う。
「私の人生の責任をあなた(神)に取って欲しい」
私も最初、夏目さんの本でこれを見た時は違和感を感じたが、これ以外に正解はないと思う。
「南無阿弥陀仏」というのも、阿弥陀仏という絶対的な存在に全ておまかせします・・・運命の下駄を預けてしまうという意味だ。
仏教においては、この「運命」は、「死後に極楽浄土に行けるかどうか」を指すようであるが、法然も親鸞も、明らかに、現世を含めた運命を対象にしていることは明らかである。
ところが、ほとんどの人は、運命は自分の力で切り開くものだと思っているし、そう考えることが立派な人間の証と思っているのだろう。
しかし、自分に運命を決めることなんて出来るのだろうか?
人生なんて、友達のアイドルオーディションについていって、自分がアイドルとしてスカウトされるようなものだ。
こんな話がある。
ある男が、やや政情不穏な国の中を列車で移動していた時だった。
彼は乗っていた車両のトイレに行ったが、使用中だったので、別の車両のトイレに行く。
その時、列車が空爆に遭い、彼が元居た車両が爆破された。
トイレに行かなかったら、そして、トイレが使用中でなかったら、彼は死んでいたのである。
彼は、人生とは偶然の積み重ねであると痛感して人生観を変え、そして、成功した。
「人生とは偶然の積み重ねである」
つまり、自分の力でどうこう出来るものではない。
言い換えれば、自分の力など、ちっぽけなものである・・・いや、無に等しいのである。
それなら、夏目さんのように、神に全てまかせるしかない。
それなら、自主的に神にまかせるべきではないだろうか?
どうせまかせるしかないのだが、それなら、積極的に神様に下駄を預ければ、心も安定するのではないか?
引き寄せの神髄とは、絶対的な存在に全てを託し、自分が邪魔をしないことなのだと思う。
それで言えば、法然や親鸞は、引き寄せということにおいても、今日でも最高レベルのことを教えていたのだと思われる。
神道では、黒住宗忠の「まることの教え」、つまり、神様にまるごとおまかせするという教えが、念仏と全く同じと思う。
阿弥陀仏といい、黒住宗忠が信仰した天照大神といい、古い物語に出て来る仏様や女神ではなく、絶対的な至高の存在である。
共に太陽神であるという性質もあると思う。
しかし、心を向ける対象として、伝説の阿弥陀仏や天照大神を想うのは全く構わないと思う。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)三帖和讃(現代語版) ※親鸞の『現世利益和讃』収録
(4)黒住宗忠 (人物叢書 新装版)

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