1日10分程度の呼吸法や瞑想すら続かないし、スコット・アダムスの断言法といった、引き寄せの中でも最も楽なメソッドでも続かない人は沢山いる・・・というより、1か月以上ストレスなく続けられる人の方が稀ではないかと思う。
続かない理由、ストレスを感じる理由は分かるが、続かないものは続かないので、今回はそこは深入りしない。
そんな者でも、科学的に言っても、念仏を唱えれば十分なのである。
確かに、念仏が葬式に使われてきたのは残念であるが、別に障りにはなっていない。
一応言うと、親鸞ですら、親を含め、人のために念仏を上げたことはないそうだ。
言ってしまえば、自分のために唱えるのである。
念仏というのは、コンピューターのアンチウイルスプログラムや、メモリの中のゴミを消すプログラムに似ている。
これは、大胆な、あるいは、強引な喩えではなく、科学的事実である。
ただ、確かに、物資主義、資本主義・・・つまり、経済至上主義に侵された頭では念仏は抵抗があるかもしれないが、それは思考を消せばなくなる。
そのために、どちらの手でもいいから、人差し指を立てると良い。
人差し指を立てると思考が85パーセント減少するのだ。
数学が得意な者でも、人差し指を立てると一次方程式を解くのも難しいが、逆に、人差し指を立てると数学の難問が解けることがある。ただ、瞬間に解けるだけなので、解答を記述出来るとは限らないが。
だから、念仏を唱えることと、人差し指を立てることさえ憶えていれば大丈夫だろう。
ただ、『歎異抄』を読むことはお薦めする。
読まなくても構わないが、読んだ場合より20年程度の差は出るかもしれない。
読んでみると、「20年早く読んでおけば良かった」と思う人は多いと思う。

これは適当に言うのだが、キリスト教徒なら「父なる神よ、アーメン」、イスラム教徒なら「アッラーは偉大なり」でも同じである。
黒住宗忠が「天照大神にまるごとまかせる」と言ったのも、「南無阿弥陀仏」が「阿弥陀仏に全てまかせる」という意味なのだから、やはり全く同じである。
一方、単純に「神」という言葉は使わない方が良いと思う。今朝も述べた通り、神にもいろいろあるのだからだ。
善なる神、慈悲深い神、無限の知恵と力を持つ神を表す名を言うことをお薦めする。
ただ、その中でも、阿弥陀仏は激甘な仏であるところは嬉しいと思う。
黒住宗忠の言う天照大神も、実はそうなのだと思う。
こんな話がある。
宗忠に刃物を突き付け、「十両出せ」と脅迫した追いはぎがいたらしいが、宗忠は「あいにく五両しかない。後は明日」と言って、翌日、宗忠は五両を借りて本当に渡しに行ったらしい。
念仏の方で言えば、因幡の源左は、自分の畑にイモ泥棒が来て、イモを掘り出されて盗まれたのだが、それを知った源左は、畑に鍬を置いておくことにした。「手で掘って怪我をしては大変」だからだ。
宗忠や源左は天照大神や阿弥陀仏と一体化していたようなものだから、アマテラスも阿弥陀も、同じなのだろう。
イエスの場合は「人を許せば父(神)も許して下さる」のだが、阿弥陀仏の場合は、「許さなくても許してくれる」のである。
念仏による現世利益を説く、親鸞の『現世利益和讃』15歌は私の聖歌である。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(3)黒住宗忠 (人物叢書 新装版)
(4)三帖和讃(現代語版) ※『現世利益和讃』収録

コントラスト
AIアート1663
「コントラスト」
Kay

  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ