私は毎日の鍛錬として、佐川幸義流四股4600回、腕振り運動1000回、船漕ぎ運動600回は、よほどのことがない限り、1年365日行っているが、意外に出来ないのが呼吸法や覚醒メソッドだ。
政木和三さんは小学3年生の時、1日1時間の腹式呼吸を1か月やって超人化し、ネドじゅんさんという人は、どのくらいの時間やったのかは分からないが、エレベーターの呼吸という、やはり腹式呼吸のようなことを毎日やって、思考を消すことが出来たと言う。
私は、速読訓練の一環として呼吸法を3か月毎日やったことがあるし、TM(超越瞑想)は1年は、ほぼ毎日2回行い、自覚のない成果はあったのだろうが、今は全くやらない。
呼吸法や覚醒のための行は、もしかしたら続け難いのかもしれない。
一方で、四股など、身体を動かすものは続け易いように思う。人それぞれかもしれないが。
だが、覚醒のための行や、引き寄せメソッドを人に薦めてやってもらうと、ほとんど全て長続きしない。
よって、なかなか、覚醒とか明確な引き寄せが出来ない人が多いが、私が子供の時、キリスト並の奇跡を起こせた頃は、修行は何もしていなかった。きっと、あの頃は、現実と夢の区別がついていなかったのだろう。
今だって、現実と夢を区別せずにいると、やはり奇跡は起こる。
しかし、普通の大人が、そんなふうに日常を送ることは難しいと思う。
けれども、もし出来れば、やっぱり奇跡も起こせると思う。
ただ、お金を儲けるとか、恋愛成就となると、どうしても現実的になってしまうのだろう。
やはり、夢のように現実を送ることが出来る人は、あまりいないと思う。
それが出来そうな引きこもりニートなんて、ある意味では、実に現実的なものだ。
確かに、暇があるはずの引きこもりニートは、覚醒や引き寄せとほとんど縁がない。
私は、法然や親鸞も、凡人というのは、どんな修行も長続きしないし、自分だって、そんな傾向が強いことが分かっていたのだと思う。
また、はっきりはしないが、釈迦もそう考え、それで「念仏以外の行は全て無効になる」と言ったという説があるが、これが案外にリアリティを感じる。
念仏というのは、理屈で考えても良い方法であると思う。ただ、どうも葬式仏教の雰囲気があるので、お薦めし難いという面もある。
念仏は、「お天道様が見ている」という考え方と、ある意味似ている。
つまり、自分より上位、あるいは、高次の存在を意識するということだ。
人間の欠点であり不幸の根源は、個としての自分を崇めることだ。
「私は偉い」「私は尊重されるべき」「私には権利がある」といったふうに、自分を神扱いする性質が強いのである。
そこには、自分以上の存在を許さない自我があるが、この自我の増長が人間を滅ぼすのである。
「南無阿弥陀仏」というのは、自分をはるかに超えた存在である阿弥陀仏の存在を意識させる。
念仏以上に簡単にそれが出来るものは、なかなかないと思う。
神の名を唱えるナーマスマラナという行も原理は同じである。
ヒンズー教の方が盛んなインドでは、念仏よりも、クリシュナやラーマ、あるいは、ビシュヌやインドラの名を唱える方が一般的なようだが、
それも続けている人は、今やあまりいないと思う。
南無阿弥陀仏でも南無観世音菩薩でも南無弥勒菩薩でも、馴染があればアマテラスオオミカミでも、アメノミナカヌシノミコトでも良い。
それこそ「神様」でも良いし、「大黒様」でも良い。
自分より上位と認められるものに意識を向ければ、自ずと覚醒するだろう。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)ナーマスマラナ ~神の名前の不思議な力~(サティヤ・サイババ)

AIアート1660
「静止」
Kay
政木和三さんは小学3年生の時、1日1時間の腹式呼吸を1か月やって超人化し、ネドじゅんさんという人は、どのくらいの時間やったのかは分からないが、エレベーターの呼吸という、やはり腹式呼吸のようなことを毎日やって、思考を消すことが出来たと言う。
私は、速読訓練の一環として呼吸法を3か月毎日やったことがあるし、TM(超越瞑想)は1年は、ほぼ毎日2回行い、自覚のない成果はあったのだろうが、今は全くやらない。
呼吸法や覚醒のための行は、もしかしたら続け難いのかもしれない。
一方で、四股など、身体を動かすものは続け易いように思う。人それぞれかもしれないが。
だが、覚醒のための行や、引き寄せメソッドを人に薦めてやってもらうと、ほとんど全て長続きしない。
よって、なかなか、覚醒とか明確な引き寄せが出来ない人が多いが、私が子供の時、キリスト並の奇跡を起こせた頃は、修行は何もしていなかった。きっと、あの頃は、現実と夢の区別がついていなかったのだろう。
今だって、現実と夢を区別せずにいると、やはり奇跡は起こる。
しかし、普通の大人が、そんなふうに日常を送ることは難しいと思う。
けれども、もし出来れば、やっぱり奇跡も起こせると思う。
ただ、お金を儲けるとか、恋愛成就となると、どうしても現実的になってしまうのだろう。
やはり、夢のように現実を送ることが出来る人は、あまりいないと思う。
それが出来そうな引きこもりニートなんて、ある意味では、実に現実的なものだ。
確かに、暇があるはずの引きこもりニートは、覚醒や引き寄せとほとんど縁がない。
私は、法然や親鸞も、凡人というのは、どんな修行も長続きしないし、自分だって、そんな傾向が強いことが分かっていたのだと思う。
また、はっきりはしないが、釈迦もそう考え、それで「念仏以外の行は全て無効になる」と言ったという説があるが、これが案外にリアリティを感じる。
念仏というのは、理屈で考えても良い方法であると思う。ただ、どうも葬式仏教の雰囲気があるので、お薦めし難いという面もある。
念仏は、「お天道様が見ている」という考え方と、ある意味似ている。
つまり、自分より上位、あるいは、高次の存在を意識するということだ。
人間の欠点であり不幸の根源は、個としての自分を崇めることだ。
「私は偉い」「私は尊重されるべき」「私には権利がある」といったふうに、自分を神扱いする性質が強いのである。
そこには、自分以上の存在を許さない自我があるが、この自我の増長が人間を滅ぼすのである。
「南無阿弥陀仏」というのは、自分をはるかに超えた存在である阿弥陀仏の存在を意識させる。
念仏以上に簡単にそれが出来るものは、なかなかないと思う。
神の名を唱えるナーマスマラナという行も原理は同じである。
ヒンズー教の方が盛んなインドでは、念仏よりも、クリシュナやラーマ、あるいは、ビシュヌやインドラの名を唱える方が一般的なようだが、
それも続けている人は、今やあまりいないと思う。
南無阿弥陀仏でも南無観世音菩薩でも南無弥勒菩薩でも、馴染があればアマテラスオオミカミでも、アメノミナカヌシノミコトでも良い。
それこそ「神様」でも良いし、「大黒様」でも良い。
自分より上位と認められるものに意識を向ければ、自ずと覚醒するだろう。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)ナーマスマラナ ~神の名前の不思議な力~(サティヤ・サイババ)

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