引き寄せでどんな願望も叶うという主張は、おかしなものに感じざるを得ない。
引き寄せの話の中では、その願望というのが、お金だの、結婚だの、恋愛成就だの、健康といったものばかりが取り上げられる。
しかし、人間の本当の願望なんて闇深いものだ。
たとえば、気味の悪い話で恐縮だが、人殺しがしたくてたまらないとか、さらにグロテスクだが、人間を食べたくてしかたがないという人もいると思う。
ロリコンやショタコン(ロリコンの男児版)はいくらでもいて、エプスタインという富豪が離島に、そんな願望を持つ金持ちの夢を実現させる用意をしたり、ジャニーズ問題のように金の力でそんな願望を満たす者は、世の中に沢山いる。
殺人願望や人間を食べる願望を叶えるための金持ち向けサービスなんてのも、隠されてはいるが、やはりあるのだと思う。
人間の願望なんて、健康的でないものの方がずっと多いかもしれない。
そんなものが全部叶うなんてことがあるのだろうか?
不健康な願望を持ってはならないと言ったところで、それがなくなるはずがない。
禁酒法で酒が禁止されたら闇バーが蔓延し、違法な酒の流通でギャングが金を得る。
そんなふうに、法で禁止したら、それがアンダーグラウンド化し、不幸な人が大幅に増えるのは当たり前である。
引き寄せの本に、「願望に善い悪いはありません」なんてよく書かれているが、そんな本の著者は余程の馬鹿か、詐欺師としか思えない。
ところが、高度な意味では、確かに「願望に善い悪いはない」のである。
以下、わざと極端な言い方をする。
道徳的、倫理的、あるいは法的な意味では全くないが、人殺しの願望も、オリンピックで金メダルを取りたいという願望も同じ・・・ではないかもしれないが同種で、どちらも卑しいものだ(願望だけなら、法的にも問題ないが)。
つまり、人殺しの願望も、金メダルの願望も、単なる欲望であるという意味では同じということだ。
執行草舟(しぎょう そうしゅう)氏がYouTubeで、「オリンピックで金メダルを取りたいなんて言うのは恥ずかしいことだ。昔なら、『お前はそんな恥ずかしい理由でスポーツをやっているのか』と言われただろう」といったことを言われていたが、そりゃそうだと思う。
ところが、オリンピックで金メダルを取りたいと言う者が「お世話になった人達への恩返しのために」だの「お母さんを喜ばせるために」だのと言うのは、醜い欲望をカモフラージュする言い訳に過ぎないのだが、それらの発言は、スポーツで儲けたい者にとって非常に都合が良いので、マスコミで大いに流されるのである。
欲望に関しては、諦めるというか、天にまかせるに限る。
心境としては「南無阿弥陀仏」で、仏に全てまかせるのである。
それであれば、どんな願望を持っていようが悩む必要はない。
悪い願望が叶ったとしても、念仏の教えによれば、仏は罰したりはしない。
イエスは、「人の罪を許せ。そうすれば、あなたの罪も許される」と言うが、念仏の教えでは、ただ念仏を唱えれば許される。
ただし、葬式仏教的な念仏ではなく、一切を高次の力にまかせるという宣言としての念仏である。こちらの念仏が本来の仏教の念仏と思う。
イエスも「必要なものは必ず与えられる」と言ったように、正しい念仏をすれば、やはり困ることはないし、むしろ、かなり恵まれると思う。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
~『私は誰か?』(ラマナ・マハルシ)第18章より~
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラマナ マハルシの教え(ラマナ・マハルシ。山尾三省訳)
(2)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(3)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(4)新約聖書 福音書 (岩波文庫)

AIアート1659
「妖精の色彩」
Kay
引き寄せの話の中では、その願望というのが、お金だの、結婚だの、恋愛成就だの、健康といったものばかりが取り上げられる。
しかし、人間の本当の願望なんて闇深いものだ。
たとえば、気味の悪い話で恐縮だが、人殺しがしたくてたまらないとか、さらにグロテスクだが、人間を食べたくてしかたがないという人もいると思う。
ロリコンやショタコン(ロリコンの男児版)はいくらでもいて、エプスタインという富豪が離島に、そんな願望を持つ金持ちの夢を実現させる用意をしたり、ジャニーズ問題のように金の力でそんな願望を満たす者は、世の中に沢山いる。
殺人願望や人間を食べる願望を叶えるための金持ち向けサービスなんてのも、隠されてはいるが、やはりあるのだと思う。
人間の願望なんて、健康的でないものの方がずっと多いかもしれない。
そんなものが全部叶うなんてことがあるのだろうか?
不健康な願望を持ってはならないと言ったところで、それがなくなるはずがない。
禁酒法で酒が禁止されたら闇バーが蔓延し、違法な酒の流通でギャングが金を得る。
そんなふうに、法で禁止したら、それがアンダーグラウンド化し、不幸な人が大幅に増えるのは当たり前である。
引き寄せの本に、「願望に善い悪いはありません」なんてよく書かれているが、そんな本の著者は余程の馬鹿か、詐欺師としか思えない。
ところが、高度な意味では、確かに「願望に善い悪いはない」のである。
以下、わざと極端な言い方をする。
道徳的、倫理的、あるいは法的な意味では全くないが、人殺しの願望も、オリンピックで金メダルを取りたいという願望も同じ・・・ではないかもしれないが同種で、どちらも卑しいものだ(願望だけなら、法的にも問題ないが)。
つまり、人殺しの願望も、金メダルの願望も、単なる欲望であるという意味では同じということだ。
執行草舟(しぎょう そうしゅう)氏がYouTubeで、「オリンピックで金メダルを取りたいなんて言うのは恥ずかしいことだ。昔なら、『お前はそんな恥ずかしい理由でスポーツをやっているのか』と言われただろう」といったことを言われていたが、そりゃそうだと思う。
ところが、オリンピックで金メダルを取りたいと言う者が「お世話になった人達への恩返しのために」だの「お母さんを喜ばせるために」だのと言うのは、醜い欲望をカモフラージュする言い訳に過ぎないのだが、それらの発言は、スポーツで儲けたい者にとって非常に都合が良いので、マスコミで大いに流されるのである。
欲望に関しては、諦めるというか、天にまかせるに限る。
心境としては「南無阿弥陀仏」で、仏に全てまかせるのである。
それであれば、どんな願望を持っていようが悩む必要はない。
悪い願望が叶ったとしても、念仏の教えによれば、仏は罰したりはしない。
イエスは、「人の罪を許せ。そうすれば、あなたの罪も許される」と言うが、念仏の教えでは、ただ念仏を唱えれば許される。
ただし、葬式仏教的な念仏ではなく、一切を高次の力にまかせるという宣言としての念仏である。こちらの念仏が本来の仏教の念仏と思う。
イエスも「必要なものは必ず与えられる」と言ったように、正しい念仏をすれば、やはり困ることはないし、むしろ、かなり恵まれると思う。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
~『私は誰か?』(ラマナ・マハルシ)第18章より~
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラマナ マハルシの教え(ラマナ・マハルシ。山尾三省訳)
(2)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(3)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(4)新約聖書 福音書 (岩波文庫)

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