念仏は、実際は夢の世界であるこの世に最も適合するための優秀なシステムであると思う。
夢の世界と言っても、実体は、コンピューターゲームのような仮想世界、あるいは、シミュレーション世界だ。
念仏のシステムのマニュアルの1つである『観無量寿経』を読むと、仏国土というのは高度に機械化された世界と言うよりは、どう見てもシミュレーション世界である。
イギリスの数理哲学者ニック・ボストロムや、近年何かと話題のイーロン・マスクは、この世界がシミュレーション世界であるとほぼ断定しているが、彼らも思いつきでそう言ったのではなく、否定し難いというところまで突き詰めてそう言うのであり、それは難しいことなのかと言うと、誰でもそう結論付けるしかないと思う。

念仏システムと近いのが、荘子の手法で、それは「なりゆきにまかせ、何もしない」というものだ。
現代でもよく言われる「あるがままに(Let it be)」「なんとかなる」「なるようになる」という言葉も、根は同じなのかもしれないが、荘子と似ている。
しかし、荘子以外は、「何もしない」が強調されておらず、人間は、つい何かしてしまう。
いくら「あるがままに」と思っても、何かして、あるがままに出来ないのが人間だ。
また、荘子以外は、「善いことをしろ。悪いことをするな」ということをを否定しない。
すると、人間は善いことをしようとすると同時に、同じくらい、悪いこともしようとするのだ。
荘子が言う通り、善いと悪いに違いはないからだ。
「善いと悪いの区別がつくのが大人だ」と言う者ほど、悪いことをするかもしれない。

だが、念仏システムは荘子を超える。
なぜなら、「善いことをしてはならない」「悪いことをしても構わない」と言うからである。
こう言うと、「平気で悪いことをやり放題のやつらが正しいのか?」と言いたい者がいるだろうが、この考えには誤解がある。
悪いことをする連中は、やりたくて悪いことをしているのではない。やらされているだけなのだ。
そして、悪いことをしようとしても悪いことが出来るわけではない。
思う通りに善いことも悪いことも出来ないことは『荘子』にだって書かれている。全てやらされているということも。
さらに、荘子は、善いことをする者を馬鹿にしている。
ここらを見ると、荘子もかなりのものなのである。
言ってみれば、機能的には同じだが、念仏は愚民にも親切な分かり易い製品のようなものだ。

善いことをしてはならないというのを納得しない人が多い。
しかしさあ(笑)、善いことをする者って、「自分が好きな善いことしかしない」のである。
だから、荘子は善いことをする者を馬鹿にするのである。
念仏システムを理解していた親鸞は、善いことをする者を馬鹿にしたわけではないが、困ったものだとは思っていたと思う。
親切の押し売りをする者を荘子は馬鹿にし、親鸞は、一応は褒めるが、ため息をつくのであると思う。
その対策として、荘子は、大きな善いことをした者を、善いことをしない神仙に合わせたらどうなるかを描いて見せた。
だが、親鸞はあえて「善いことをするな」「悪いことをしても構わない」と、誤解はされそうだが、当たり前のことを言ったのである。

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(2)新釈 荘子 (PHP文庫)
(3)浄土三部経(現代語版)(浄土真宗本願寺派総合研究所)

蜃気楼
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「蜃気楼」
Kay

  
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