死後の世界はあるだろうか?
あるいは、死後の生はあるだろうか?
これに関しては、「ある」と主張する側の論が駄目過ぎる。
死後の生の証拠とされるものは2つで、「臨死体験」と「前世の記憶」だ。
だが、臨死体験は、「ただの幻覚」と言われたらそれまでだ。
「いや、臨死体験者の報告が一致、あるいは、非常に似ている」という主張もあるが、実際はそれほど似ていない。
一方、前世の記憶に関しては、1つでも客観的に証明されれば大きな証拠になると思われる。
しかし、前世の記憶があると言われた者(多くが子供)の、その前世の記憶と、調査で得た事実では、実際はそれほど一致しておらず、捏造の報告も多い。前世の記憶とされる内容の正確性が高い場合でも、前世の記憶として語られた内容が、実は現世でたまたま知ったことだったとか、酷い場合には、調査と同時に教えられたという場合もあったようだ。

『青い鳥』で有名なモーリス・メーテルリンクが、死後の生について『死後の存続』(原題は『La Mort(死)』1913)で、自信たっぷりに死後の生があることを書いているが、説得力はなかったと思われる。

だが、死後の生があることは分かる。
たとえば、物凄く大きな望みがあり、「これさえ叶ったら死んでもいい」と本当に思う人は実際にいると思う。
これは、死後の生がなくては、出て来る発想ではない。
『フランダースの犬』で、ネロが最後にルーベンスの絵が見たいと思って大寺院に行くが、これは、その絵を見ることが出来たら死んでも良いという意味だ。
しかし、死んだら全て終わるのなら、そんな気持ちが起こるはずがない。
死後の生で満足感を味わいたいと思うから、特に死の直前に最高の気分を味わいたいのである。

安楽死についても同じである。
苦しまずに死にたいと思うのも、死後の生で、死に際に苦しんだことを憶えていると思うからだ。

最大の願いを叶え、
「これでもう思い残すことはない。安らかに死を待つ」
と、本当に思う人は・・・実はいない。
逆に、
「このままでは死んでも死にきれない」
と思う人は少なくない。

まだ叶わぬ大きな望みを持っているが、
「叶っても叶わなくてもどっちでもいい」
と思うと、死後の生が分かる・・・と言うより、生や死を超越する。つまり、生と死の区別がなくなる。
これは、本当の願いであるが、諦めたという時によく起こる神秘現象だ。
これが神になる秘法と言われている。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)臨死体験(上)(立花隆)
(2)前世を記憶する子どもたち(イアン・スティーヴンソン)
(3)[完全版]生きがいの創造(飯田史彦)
(4)フランダースの犬(マリー・ルイーズ ド・ラ・ラメー) ※無料

空と瞳の共鳴
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「空と瞳の共鳴」
Kay

  
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