最近のアニメは「なろう系」というものが多いようだ。
なろう系とは、だいたいにおいては、平凡以下の人間が、異世界に行くと、努力せずにチート能力(反則級の強大な能力)を得て、ヒーローや超大物になることだ。
中二病の者が、こんなアニメに憧れる傾向が強いようだ。
中二病とは、客観的な根拠なく(つまり思い込みで)自分は特別な人間であると見なして現実逃避することと言って良いかなと思う。

なろう系アニメ作品と言われるもので、私が分かるのは、
・ソードアート・オンライン
・RE:ゼロから始める異世界生活
・魔法科高校の劣等生
・ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか
私としては、この他にも、
・異世界はスマートフォンとともに
・即死チートが最強すぎて、異世界のやつらがまるで相手にならないんですが。
・悪役令嬢レベル99 〜私は裏ボスですが魔王ではありません〜
あたりも、そうだと思う。

これらの作品において、主人公が努力をしているように見えるものもあるが、あり得ないほどの素質があったり、あり得ないほどの有利な援助が得られる場合が多く、我々のスタンダードである「地道な努力」とは程遠い。
『ソードアート・オンライン』のキリトは、ひきこもりのゲームオタクであることで得たゲームの能力が異世界での力になったのだが、それはまさに漫画的な与太話だろう。

とはいえ、この世界も漫画やアニメや映画や劇と同じである。
ニサルガダッタ・マハラジなどは、幼稚園のお遊戯会とまで言っていたと思うが、まあ、そう言っても良いかもしれない。
現実世界は夢と変わらないと言う賢者は多いし、程度の差はあれ、そう思う人は、常識人や科学者にも増えていると思う。

なろう系と卑下される作品は、普通に言う現実的より、もっと現実的かもしれない。
ただ、そんな世界は非現実だと信じさせられてきたので、違和感があるだけではないかと思う。

私は、現実になろう世界を体験している。
小学4年生が終わり、5年生になる時に転校したのだが、その転校先がそうだった。
急にモテモテになり、敵対する者はいなかった。
どうすればそうなるのかと言うと、信念を持つことである。
そして、信念は、好きなことを延々繰り返すことで得られる。
それで言えば、『ソードアート・オンライン』のキリトは良い道を来たわけだ。
ただ、世界には、なろう系の現実化を阻止する強力な勢力がある。
それで、結局、キリトみたいな者だって、いつか「昔の嘘話をする嘘のスーパーヒーロー」になってしまう。
まあ、マルコ・ポーロもそう言われたものだ。

だが、世界は、本当はなろう世界であると思う。
そのことを忘れず、敵の策略をうまく退ければチート能力を得るだろう。
呼吸数が多ければ、自分の設定が広く伝播せず、信念も壊れてしまう。
しかし、呼吸数が十分に少なければ、あっけなく世界が従うのではと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)バシャール(BASHAR)・ペーパーバック1(ダリル・アンカ)
(2)アイ・アム・ザット 私は在る ~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~
(3)投影された宇宙 ~ホログラフィック・ユニヴァースへの招待~(マイケル・タルボット)
(4)タフティ・ザ・プリーステス(ヴァジム・ゼランド)
(5)新釈 荘子 (PHP文庫)
(6)信念の魔術(クラウド.M.ブリステル)

人と妖精の見分け方
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「人と妖精の見分け方」
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