大発見をした・・・まあ、半分大袈裟かもしれないが。
これはもう事実とするが、目覚めていながら無になれば・・・すなわち思考が消えれば、魂が持つ全知全能の力が解放され、不可能はなくなる。
そこで、思考を消すために、いろいろなことをするのだが、そのためには、長く静かな呼吸をすることが有効である。
だが、この長く静かな呼吸が、なかなか出来ない人が多いことに気付いた。
それで聞き込みを行ううちに分かったことが、今回の大発見である。

それは、利他的であれば、思考を消し易い、思考を消すための努力がし易いということだ。
尚、非利己的であるというのは、無思考であることと同じなので、「無思考になるために非利己的になる」というのは成り立たない。
京セラ創業者の稲森和夫が、重要な決断をする際、「無私であるか否か」を重要視したが、この無私が非利己的ということであり、無思考ということだ。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』にある「自分ヲ勘定ニ入レズ」が、非利己的、無私、無思考である。

利他的であることは、思考があっても出来るし、それで非利己的、無私、無思考に近付く。
すると、静かな長い呼吸もし易くなり、ぐっと無思考に近くなる。
だが、利他的であるのも、なかなか難しい。
そこで工夫が必要になる。
たとえば、ルーチンに組み込んでしまうという手がある。
一例で言えば、毎朝必ず公園の掃除をするなどである。
もっと小さなことでも良い。
私の例で言えば、駐車場を借りているのだが、左右の人の迷惑にならないよう、白線の中央に、そして、出来るだけ後ろまで下げて止めるようにしているが、タイヤ止めがないので、車を買ったばかりの頃は、何度も車から降りて駐車位置を確認した。
これも利他行為の1つと思う。
私の知人の金持ちは、脱いだ靴をきちんと揃えることと、傘をたたんでから傘立てに立てることを徹底している。
何かの本で読んだが、ある男性は、死んで閻魔様の前に出たら、「善いことは何もしなかったが、トイレの下駄(スリッパ)だけはきちんと揃えて出たと言うつもり」と言っていたらしいが、これも徹底すれば利他的である。

利他行為は、簡単にやれるものからすれば良いが、どんどん増えてくる。つまりそれは、非利己的(無私、無思考)に近付いているということだ。
利他行為は、理由があるとやり易いが、理由がある利他行為は簡単に見つかるものだ。
たとえば、私は町内の、お年寄りや身体が不自由な人のゴミ出しを(数件だが)行っているが、「この人が以前飼っていた猫が仲良くしてくれたから」とか、「この人は子供の時から知ってて世話になったから」と思えば、「してやっている」という気は全く起こらない。これは非利己的に近い。
おそらくだが、利他的なことを全く、あるいは、ほとんどやらない者が、静かな長い呼吸を満足に行うことはない。

ところで、私がそう思っているだけかもしれないが、稲森和夫の「無私であるか」は、インドの長編叙事詩の物語『ラーマーヤナ(「ラーマの物語」の意)』で、魔王ラーヴァナがラーマに教えたことであると思う。
『ラーマーヤナ』は人生で一度は・・・いや、なるべく早く読むことをお薦めする。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラーマーヤナ(上) (レグルス文庫)
(2)パイロットが空から学んだ運と縁の法則(坂井優基)
(3)銀河鉄道の夜 (280円文庫)(宮沢賢治)

花の命
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Kay

  
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