「思考が停止している」「自分の頭で考えることが出来ない」という言葉を、人を蔑む、馬鹿にする意味で使うのは、本当にやめて欲しいと思う。
性善説と性悪説の話で、
「溺れている子供を見て、救おうという気持ちが起こるのは、後で利得を得ようとしてのことではない。よって、人間の本質は善である」
という意見がある。
これに対しては、いろいろ反論がある。
たとえば、
「子供が溺れているのに助けなかった薄情な人間だと思われないために救うのではないか?」
といったものだ。
この2つの意見では、いずれも子供を救うのだが、こんな話はどうだろう?
私が小さな子供の時に見た映画だが、高校生くらいのイケメンの男と、同い年くらいの女が仲良く話しながら歩いていたら、子犬が池に落ちて溺れているのが見えた。
その女は、その男に「助けてあげて」と言うが、子犬が溺れているのは、大きな池の岸から離れたところで、助けるには泳いで行く必要がある。
男は、少し苦笑して、「服が濡れちゃう。まだ寒いし」みたいなことを言って、助けようとしない。
ところがそうしていると、1人の、やはり彼らと同い年くらいの男が池に飛び込んで子犬を助けた。
結局、この女は、そのイケメン男子を振って、子犬を助けた男を気に入って付き合うことになったと思う。
思考停止していたのは、子犬を助けた男の方だ。
一方、自分の頭で考えていたのは、イケメンの男だ。
イケメンの男は、こんなことを「自分の頭で」考えたのだと思う。
「助けるために飛び込んだら寒いし、服がびしょびしょになって大変だ」
「助けなかったら、この女の印象が悪くなるかもしれないが、それでも濡れるのや寒いのは嫌だ」
「俺だって、子犬が溺れ死ぬのは嫌だが、濡れるのや寒いのはもっと嫌だ」
「この女、なんとか諦めてくれないかな」
一方、子犬を助けた男は、別に次のように考えたのではないようだった。
「ここで子犬を助けたら、この女の気を引くことが出来るに違いない」
「子犬の飼い主がいたら、礼をもらえるかもしれない」
「子犬を助けた善良な若者として評判になり、いろいろいい思いが出来るのではないか」
子犬を助けた男は、子犬を抱いて嬉しそうに可愛がっていたことから、やはり、そんなことは考えていなかっただろう。
つまり、子犬を助けた男は、溺れている子犬を見て、「思考停止」し、「自分の頭で考えず」、内から起こった善意に従って助けたのである。
昔、こんな映像をテレビで見たことがある。
多分、事実だったと思う。
子供が、流れの激しい川で溺れている。
親は助けたいが、助ける方法がない。
そんな親を見て、ある男が、その親に、助けたらいくら出すかの交渉を始める。
この男は、助けたら自分の評判が良くなるというより、もっと自分の頭で考え、「助けて儲けよう」と考えたのである。
一方、見返りなしでも助けたいが、自分の力で助けることが出来ない人は、何も考えていない。
あるいは、一見、自分が助けることは不可能でも、何とか助けることが出来ないかと思う者が、「こうすれば助けられるのではないか」と、助けるためのアイデアを思いつくのは、思考停止した時だ。
スポーツでも、素晴らしいプレーがあった時、そのスポーツをよく知っている解説者が「あれは考えてやったんじゃないですね」などとよく言うが、それと同じである。
武道では、考えて動くのではなく、無我で戦うことを目指す。つまり、無思考で動けるように修行するのである。
「よく考えて選びなさい」
と言われて、本当によく考えたら、必ず駄目な方を選ぶ。
「何も考えずに選んだから、間違った方を選んだ」などと言うかもしれないが、実際は、下らないことを考えて選ぶから間違えるのだ。
金持ちの男と、豊かでない男からプロポーズされ、「よく考えて」金持ちの男を選んだ女は不幸になる。
未来がどうなるかは分からないが、どうせ分からないなら勘で選んだ方がマシである。
考えても正しい方は分からないが、無思考になった時の勘は、なかなか鋭いものだ。
まあ、いろいろ反論もあろうが、少なくとも、「思考が停止している」「自分の頭で考えることが出来ない」という言葉を否定的に使うべきでないことが分かると思う。
そもそも、そんな言葉で人を蔑む者に賢い人間はいない。知らない人も多いと思うが、それは確かである。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)精神について(ラルフ・ウォルドー・エマソン)
(2)私の声はあなたとともに ~ミルトン・エリクソンのいやしのストーリー~
(3)新釈 荘子 (PHP文庫)
(4)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省訳)

AIアート1530
「夢」
Kay
性善説と性悪説の話で、
「溺れている子供を見て、救おうという気持ちが起こるのは、後で利得を得ようとしてのことではない。よって、人間の本質は善である」
という意見がある。
これに対しては、いろいろ反論がある。
たとえば、
「子供が溺れているのに助けなかった薄情な人間だと思われないために救うのではないか?」
といったものだ。
この2つの意見では、いずれも子供を救うのだが、こんな話はどうだろう?
私が小さな子供の時に見た映画だが、高校生くらいのイケメンの男と、同い年くらいの女が仲良く話しながら歩いていたら、子犬が池に落ちて溺れているのが見えた。
その女は、その男に「助けてあげて」と言うが、子犬が溺れているのは、大きな池の岸から離れたところで、助けるには泳いで行く必要がある。
男は、少し苦笑して、「服が濡れちゃう。まだ寒いし」みたいなことを言って、助けようとしない。
ところがそうしていると、1人の、やはり彼らと同い年くらいの男が池に飛び込んで子犬を助けた。
結局、この女は、そのイケメン男子を振って、子犬を助けた男を気に入って付き合うことになったと思う。
思考停止していたのは、子犬を助けた男の方だ。
一方、自分の頭で考えていたのは、イケメンの男だ。
イケメンの男は、こんなことを「自分の頭で」考えたのだと思う。
「助けるために飛び込んだら寒いし、服がびしょびしょになって大変だ」
「助けなかったら、この女の印象が悪くなるかもしれないが、それでも濡れるのや寒いのは嫌だ」
「俺だって、子犬が溺れ死ぬのは嫌だが、濡れるのや寒いのはもっと嫌だ」
「この女、なんとか諦めてくれないかな」
一方、子犬を助けた男は、別に次のように考えたのではないようだった。
「ここで子犬を助けたら、この女の気を引くことが出来るに違いない」
「子犬の飼い主がいたら、礼をもらえるかもしれない」
「子犬を助けた善良な若者として評判になり、いろいろいい思いが出来るのではないか」
子犬を助けた男は、子犬を抱いて嬉しそうに可愛がっていたことから、やはり、そんなことは考えていなかっただろう。
つまり、子犬を助けた男は、溺れている子犬を見て、「思考停止」し、「自分の頭で考えず」、内から起こった善意に従って助けたのである。
昔、こんな映像をテレビで見たことがある。
多分、事実だったと思う。
子供が、流れの激しい川で溺れている。
親は助けたいが、助ける方法がない。
そんな親を見て、ある男が、その親に、助けたらいくら出すかの交渉を始める。
この男は、助けたら自分の評判が良くなるというより、もっと自分の頭で考え、「助けて儲けよう」と考えたのである。
一方、見返りなしでも助けたいが、自分の力で助けることが出来ない人は、何も考えていない。
あるいは、一見、自分が助けることは不可能でも、何とか助けることが出来ないかと思う者が、「こうすれば助けられるのではないか」と、助けるためのアイデアを思いつくのは、思考停止した時だ。
スポーツでも、素晴らしいプレーがあった時、そのスポーツをよく知っている解説者が「あれは考えてやったんじゃないですね」などとよく言うが、それと同じである。
武道では、考えて動くのではなく、無我で戦うことを目指す。つまり、無思考で動けるように修行するのである。
「よく考えて選びなさい」
と言われて、本当によく考えたら、必ず駄目な方を選ぶ。
「何も考えずに選んだから、間違った方を選んだ」などと言うかもしれないが、実際は、下らないことを考えて選ぶから間違えるのだ。
金持ちの男と、豊かでない男からプロポーズされ、「よく考えて」金持ちの男を選んだ女は不幸になる。
未来がどうなるかは分からないが、どうせ分からないなら勘で選んだ方がマシである。
考えても正しい方は分からないが、無思考になった時の勘は、なかなか鋭いものだ。
まあ、いろいろ反論もあろうが、少なくとも、「思考が停止している」「自分の頭で考えることが出来ない」という言葉を否定的に使うべきでないことが分かると思う。
そもそも、そんな言葉で人を蔑む者に賢い人間はいない。知らない人も多いと思うが、それは確かである。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)精神について(ラルフ・ウォルドー・エマソン)
(2)私の声はあなたとともに ~ミルトン・エリクソンのいやしのストーリー~
(3)新釈 荘子 (PHP文庫)
(4)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省訳)

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