『葉隠(はがくれ)』とは、江戸時代中期に佐賀藩の山本常朝(やまもとつねとも)が、(上級の)武士の心得を口述したものだ。
優れた武士の間で評価が高いだけでなく、三島由紀夫なども絶賛してきた。
武士の心構えと言うからには、さぞ厳格なことが書かれているというイメージがあるかもしれず、『葉隠』の中の最も有名な言葉の1つ、
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」
も、武士道に対するおかしな観念を一般の人に持たせてしまったと思う。
だが、『葉隠』を読むと、親切な世話好きなおじさんが言っているという雰囲気もあるほど、人間味がある内容で驚くかもしれない。
武士道の名著と言ったら、新渡戸稲造の『武士道』を思い浮かべるかもしれないが、こちらは、西洋人のために新渡戸稲造が英語で書いたものだ。そして、『武士道』の方が、よほどおどろおどろしい(厳しく恐ろしい)、つまり、人間味に欠ける。
『武士道』では、主君の息子を救うために自分の息子の首を刎(は)ねるも平然とした態度を見せる武士のことが書かれているが、『葉隠』には、罪人を裁く際には罪が軽くなることを願って審議せよなどとある。
だが、『葉隠』も『武士道』も、言っていることは同じに思える。
つまり、ただ「真の意味で正しくあれ」ということで、別に武士に限ったことではない。
だが、武士は模範となるべく正しい道を行かねばならない。
今では、「私は武士道精神でやっている」と言ったら、奇妙な偏見に凝り固まった頭のおかしな人間と思われかねないが、それは、一般大衆が、武士道に対し歪んだ観念を持っているからだ。
新渡戸稲造が、西洋人から、「日本では子供に宗教を教えずに、どうやって道徳を教えるのか?」と問われ、「日本には宗教がなくても武士道がある」として『武士道』を示したように、武士道とは単に、「真に正しくあること」である。
ただ、『武士道』は、西洋人はおろか、ほとんどの日本人にすら分からない。
いや、武士に対する奇妙な偏見が多い日本人の方が分かり難いかもしれない。
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」
この死ぬとは、自我が死ぬことで、普通の言葉で言えば、思考を消すことだ。
道元が言うには、仏教の神髄は「自己を忘れること」だが、これも、自我を葬ること、つまり、思考を消すことだ。
イエスは「死ななければ生きることは出来ない」と言ったが、この「死ぬ」も、自我の死で、やはり、思考を消すことだ。
引き寄せの鍵すら、自我が死ぬことで、思考を消すことだ。
自我の死と言っても、常に自我がないわけではない・・・つまり、常に思考が消えているわけではない。
ラメッシ・バルセカールは、聖者の中の聖者と言われるラマナ・マハルシにだって自我はあると言ったが、そりゃ、自我がなければ人間として活動出来ない。
思考偏重で、思考に最大の価値を置く現代人に武士道は理解出来ない。
思考が消えたところに英知があり、思考は英知の下僕として必要なところで使えばいいのに、下僕である思考を主君である英知より上に置いているのが現代人だ。
ハサミだの歯ブラシだのといった道具は、必要な時に使えば良い道具であるように、思考も必要な時に使えば良い道具だ。
『葬送のフリーレン』で、若い魔法使いの女性ユーベルが言ったように、「ハサミって切るものなんだよ」という単純な真理を忘れ、どう切るかを考え過ぎると、切れるものも切れなくなる。
ユーベルが「皆、頭を使い過ぎるんだよ」と言ったのは、そういう意味だ。
1日5分でも10分でも、無思考になるよう(ただし目覚めている時)、ほんの少し努力すれば、引き寄せ万能・・・つまり、世界は思い通りであることに近付く。
やり方は、これまで沢山書いたが、ゆったりとした長く静かな呼吸をすることが、その良い方法の1つである。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)葉隠 (知的生きかた文庫)
(2)葉隠入門(三島由紀夫)
(3)現代訳 正法眼蔵(禅文化学院)
(4)葬送のフリーレン ※Amazon Prime Video

AIアート1528
「良い眠りを」
Kay
優れた武士の間で評価が高いだけでなく、三島由紀夫なども絶賛してきた。
武士の心構えと言うからには、さぞ厳格なことが書かれているというイメージがあるかもしれず、『葉隠』の中の最も有名な言葉の1つ、
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」
も、武士道に対するおかしな観念を一般の人に持たせてしまったと思う。
だが、『葉隠』を読むと、親切な世話好きなおじさんが言っているという雰囲気もあるほど、人間味がある内容で驚くかもしれない。
武士道の名著と言ったら、新渡戸稲造の『武士道』を思い浮かべるかもしれないが、こちらは、西洋人のために新渡戸稲造が英語で書いたものだ。そして、『武士道』の方が、よほどおどろおどろしい(厳しく恐ろしい)、つまり、人間味に欠ける。
『武士道』では、主君の息子を救うために自分の息子の首を刎(は)ねるも平然とした態度を見せる武士のことが書かれているが、『葉隠』には、罪人を裁く際には罪が軽くなることを願って審議せよなどとある。
だが、『葉隠』も『武士道』も、言っていることは同じに思える。
つまり、ただ「真の意味で正しくあれ」ということで、別に武士に限ったことではない。
だが、武士は模範となるべく正しい道を行かねばならない。
今では、「私は武士道精神でやっている」と言ったら、奇妙な偏見に凝り固まった頭のおかしな人間と思われかねないが、それは、一般大衆が、武士道に対し歪んだ観念を持っているからだ。
新渡戸稲造が、西洋人から、「日本では子供に宗教を教えずに、どうやって道徳を教えるのか?」と問われ、「日本には宗教がなくても武士道がある」として『武士道』を示したように、武士道とは単に、「真に正しくあること」である。
ただ、『武士道』は、西洋人はおろか、ほとんどの日本人にすら分からない。
いや、武士に対する奇妙な偏見が多い日本人の方が分かり難いかもしれない。
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」
この死ぬとは、自我が死ぬことで、普通の言葉で言えば、思考を消すことだ。
道元が言うには、仏教の神髄は「自己を忘れること」だが、これも、自我を葬ること、つまり、思考を消すことだ。
イエスは「死ななければ生きることは出来ない」と言ったが、この「死ぬ」も、自我の死で、やはり、思考を消すことだ。
引き寄せの鍵すら、自我が死ぬことで、思考を消すことだ。
自我の死と言っても、常に自我がないわけではない・・・つまり、常に思考が消えているわけではない。
ラメッシ・バルセカールは、聖者の中の聖者と言われるラマナ・マハルシにだって自我はあると言ったが、そりゃ、自我がなければ人間として活動出来ない。
思考偏重で、思考に最大の価値を置く現代人に武士道は理解出来ない。
思考が消えたところに英知があり、思考は英知の下僕として必要なところで使えばいいのに、下僕である思考を主君である英知より上に置いているのが現代人だ。
ハサミだの歯ブラシだのといった道具は、必要な時に使えば良い道具であるように、思考も必要な時に使えば良い道具だ。
『葬送のフリーレン』で、若い魔法使いの女性ユーベルが言ったように、「ハサミって切るものなんだよ」という単純な真理を忘れ、どう切るかを考え過ぎると、切れるものも切れなくなる。
ユーベルが「皆、頭を使い過ぎるんだよ」と言ったのは、そういう意味だ。
1日5分でも10分でも、無思考になるよう(ただし目覚めている時)、ほんの少し努力すれば、引き寄せ万能・・・つまり、世界は思い通りであることに近付く。
やり方は、これまで沢山書いたが、ゆったりとした長く静かな呼吸をすることが、その良い方法の1つである。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)葉隠 (知的生きかた文庫)
(2)葉隠入門(三島由紀夫)
(3)現代訳 正法眼蔵(禅文化学院)
(4)葬送のフリーレン ※Amazon Prime Video

AIアート1528
「良い眠りを」
Kay
人気ランキング参加中です |
![]() ![]() |
Kayさんはアメリカ大統領選の時に
トランプが劣勢の状態から、ちょっと思考を止めると
奇跡的な逆転を果たしたわけですよね?
で、今年2025年7月5日に
日本に大変な大地震が起こるという予言があることは
Kayさんはご存じでしょうか?
その予言者はこれまでも地震の予言を当てているらしく
実際に信じている人は相当多い様子で、
うちの家族もこの予言を普通に信じているようで、
「その日は家族みんな一緒にいよう。」
などと昨日話してたので憂鬱になっている所です。
Kayさんはこの予言については
正直どのように受け止めますか?