私が一貫して述べてきたのは「無になれば不可能はない」で、もっと一般的に言えば「思考しなければ全て叶う」だ。
だが、方法論に関しては、人によって性質が違うので、どうしても多様になる。
まあ、別に方法などなくても、単に意思の力で思考を止めれば良いだけで、難しいと感じるかもしれないが、1秒なら出来るだろうし、その1秒の積み重ねが大きな報いをもたらす。
それでも、昔から、効率の良い方法が提示されてきた。
ラマナ・マハルシが提唱した「私は誰か?」と問うことは、「真我の実現のため」と言うが、これも実際には思考を消す方法だ。
だが、マハルシがタミール語で言った「ナン・ヤー」が、一般に「私は誰か?(Who am I?)」と訳されているが、ニサルガダッタ・マハラジの弟子ラメッシ・バルセカールによれば、これは「私とは何か?」と訳す方が正しいと言う。
また、インドに移住したこともあり、マハルシを崇拝していた詩人の山尾三省氏は、「ナン・ヤー」を「私とは?」としていたが、私はこれが一番適切と思うし、唱えていても抵抗を感じない。
私が宇宙人から聞いたことによれば、思考を消すには「私」と唱えるのが最も効果的だが、マハルシもそれを勧めることがあったらしい。
これを引き寄せの方法と言うのもためらいはあるが、実際、「私」とよく唱えていた時は、その時期「こうなればいいな」と思っていたことが、その通りになっているし、そのこと(私と唱えること)を忘れていた時は、叶わないことが多かった。
マハルシは、「私」は最も優れたマントラであると言う。
「私」は、マハルシが使ったタミール語で「ナン」で、インドの公用語であるヒンディー語では「メイン」、古代のサンスクリット語では「コー」のようだが、その国の言葉の「私」で良いと思う。
ところで、日本では「私」の表現が多様で、普通にも「我(吾)」「俺」「僕」「わし」と言うし、昔の偉い人は「余」とか言っていたし、「あ」「あれ」「拙者」「某(それがし)」という言い方もある。むしろ「私」は歴史が短いかもしれず、実際、よく考えれば、自分のことを「私」と言うのはやや堅苦しいかもしれない。
いずれでも、自分が最も好ましく感じるように言えば良い。
アメリカ人はアメリカ国家『星条旗よ永遠なれ』が聴こえると、無意識に胸に手を当てるらしいが、あれも思考を消す優れた方法である。
そして、面白いことに「私は」と言う時、無意識に胸に手を当てたり、人差し指、あるいは、親指で自分の胸を指すことがよくある。
ラマナ・マハルシが言うには、胸の中央から指2本分右が魂の座で、そこが肉体的に「私」の位置である。
よって、そこを手を当てるなどで意識しながら「私」と唱えると、もう思考することは不可能である。つまり、それで神であり全能である。
左手を使う方が自然であるように思う。
「私と唱える」「胸に手を当てる」で超越状態となり、両方同時にやればさらに強力というわけである。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシの教え(ラマナ・マハルシ口述。山尾三省訳)
(2)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)
(3)「潜在意識」を変えれば、すべてうまくいく(アレクサンダー・ロイド)
(4)アイ・アム・ザット 私は在る ~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~

AIアート1502
「バランス」
Kay
だが、方法論に関しては、人によって性質が違うので、どうしても多様になる。
まあ、別に方法などなくても、単に意思の力で思考を止めれば良いだけで、難しいと感じるかもしれないが、1秒なら出来るだろうし、その1秒の積み重ねが大きな報いをもたらす。
それでも、昔から、効率の良い方法が提示されてきた。
ラマナ・マハルシが提唱した「私は誰か?」と問うことは、「真我の実現のため」と言うが、これも実際には思考を消す方法だ。
だが、マハルシがタミール語で言った「ナン・ヤー」が、一般に「私は誰か?(Who am I?)」と訳されているが、ニサルガダッタ・マハラジの弟子ラメッシ・バルセカールによれば、これは「私とは何か?」と訳す方が正しいと言う。
また、インドに移住したこともあり、マハルシを崇拝していた詩人の山尾三省氏は、「ナン・ヤー」を「私とは?」としていたが、私はこれが一番適切と思うし、唱えていても抵抗を感じない。
私が宇宙人から聞いたことによれば、思考を消すには「私」と唱えるのが最も効果的だが、マハルシもそれを勧めることがあったらしい。
これを引き寄せの方法と言うのもためらいはあるが、実際、「私」とよく唱えていた時は、その時期「こうなればいいな」と思っていたことが、その通りになっているし、そのこと(私と唱えること)を忘れていた時は、叶わないことが多かった。
マハルシは、「私」は最も優れたマントラであると言う。
「私」は、マハルシが使ったタミール語で「ナン」で、インドの公用語であるヒンディー語では「メイン」、古代のサンスクリット語では「コー」のようだが、その国の言葉の「私」で良いと思う。
ところで、日本では「私」の表現が多様で、普通にも「我(吾)」「俺」「僕」「わし」と言うし、昔の偉い人は「余」とか言っていたし、「あ」「あれ」「拙者」「某(それがし)」という言い方もある。むしろ「私」は歴史が短いかもしれず、実際、よく考えれば、自分のことを「私」と言うのはやや堅苦しいかもしれない。
いずれでも、自分が最も好ましく感じるように言えば良い。
アメリカ人はアメリカ国家『星条旗よ永遠なれ』が聴こえると、無意識に胸に手を当てるらしいが、あれも思考を消す優れた方法である。
そして、面白いことに「私は」と言う時、無意識に胸に手を当てたり、人差し指、あるいは、親指で自分の胸を指すことがよくある。
ラマナ・マハルシが言うには、胸の中央から指2本分右が魂の座で、そこが肉体的に「私」の位置である。
よって、そこを手を当てるなどで意識しながら「私」と唱えると、もう思考することは不可能である。つまり、それで神であり全能である。
左手を使う方が自然であるように思う。
「私と唱える」「胸に手を当てる」で超越状態となり、両方同時にやればさらに強力というわけである。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシの教え(ラマナ・マハルシ口述。山尾三省訳)
(2)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)
(3)「潜在意識」を変えれば、すべてうまくいく(アレクサンダー・ロイド)
(4)アイ・アム・ザット 私は在る ~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~

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