本物の賢者達の教えは全て本質で同じであると思う。
だが、言葉は多様に、そして微妙に表現するので、分かり難くなる。
教えの言葉を思いつくまま取り上げれば、以下のようになる。
一切をなりゆきにまかせ作為するな(荘子)
神を信じろ。だがラクダはつないでおけ(スーフィ)
僕は頭が悪いから考えることを放棄した(矢追純一)
まるごと神にまかせよ(黒住宗忠)
無になれば不可能はない(ローム)
これらを、ラマナ・マハルシの言葉でまとめれば、次のようになると思う。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
~『私は誰か?』より~
つまるところ、一言で分かり易く言えば、
みんな、頭を使い過ぎるんだよ(ユーベル~葬送のフリーレン~)
頭の中の独り言を止めろ(ドン・ミゲル・ルイス。高藤総一郎)
となると思う。
そして、究極的には、
思考するな
ということだ。
まあ、現実的には、中山正和さんがよく著書に書いていたように、「頭の無駄遣いをするな」ということで、中山さんは特に「クヨクヨするな」と言う。
これは、昔の一休さんのアニメのように「気にしない気にしない」ということと思える。
問題は方法論だ。
中山さんは般若心経でも唱えろと言う。
コリン・ウィルソンは「シャンとする以外のことを考えない」と述べていたように思う。
ところで、ラマナ・マハルシの教えは、マハルシがタミール語を使ったことから、翻訳中にいろいろ齟齬が多くなるのだろうと思う。
マハルシは、
「『私は誰か』という想念以外の想念を起こすな」
「真我という想念以外の想念を起こすな」
などと教えたらしいが、意訳に意訳が入って複雑になったのだろう。
これでは、ふにゃふにゃして何も出来ない。
「私は誰か?」とずっと頭の中で唱えれば良いのかというと、マハルシは「『私は誰か』を呪文にしてはならない」とも言っていたらしい。
どんなやり方も、所詮は権力者に利用される。
たとえば、
「四の五の考えずに、やればいいんでしょ、やれば」
というのも素晴らしい知恵(『100%(J.スキナー)』より)だが、
「敵国の人間を殺せばいいんでしょ、殺せば」
「税金を払えばいいんでしょ、払えば」
と騙される。
だから、「思考停止するな、自分の頭で考えろ」と、逆の意見が幅を効かせるようになる。
こんな考え方もある。
中国の女優ノラ・ミャオがブルース・リーについて、
「いつも映画のことばかり考えていた」
と言い、ジャイアント馬場さんが、憧れのプロレスラーであったバディ・ロジャースについて、
「いつもプロレスのことを考えていた。そりゃ、いつも考えている人とそうでない人では、差がつきますよ」
と言っていたように、何か1つのことだけを考えるのも手かもしれない。
・・・と、どんどん思考が広がり、結局、私も失敗する(笑)。
宇宙人に1つのアイディアをもらった。
1日に百回を目安に、心の中で「私」と言うことだ。
最も思考を弱める言葉が「私」だ。
ラマナ・マハルシも、最高のマントラ(真言)は「私」で、2番が「オーム」だと言ったことがあるらしい。
「私」と心で言えば思考は止まる。
マハルシは1日中常に「私」と唱えよと言っていたが、それはちょっと・・・(笑)。
だから、思い出した時でいいから、「私」と唱えるのだ。
1回「私」と唱えるだけでも小さな奇跡が起こる。
それを1日百回程度唱えるだけで一千万円くらいは入って来る(笑)。
なら、千回なら・・・1億円か?(笑)。
いや、私は5千万円くらいでもいいかな・・・と言った人がいたっけ(笑)
だが、あながち嘘ではないようだ。
「私」は精神の素振りのようなものだ。
「私と唱えればいいんでしょ、唱えれば」
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省訳)
(2)黒住宗忠 (人物叢書 新装版)
(3)ヤオイズム(矢追純一)
(4)新釈 荘子 (PHP文庫)
(5)洞察力(中山正和)
(6)100%(ジェームス・スキナー)

AIアート1498
「月下の城跡」
Kay
だが、言葉は多様に、そして微妙に表現するので、分かり難くなる。
教えの言葉を思いつくまま取り上げれば、以下のようになる。
一切をなりゆきにまかせ作為するな(荘子)
神を信じろ。だがラクダはつないでおけ(スーフィ)
僕は頭が悪いから考えることを放棄した(矢追純一)
まるごと神にまかせよ(黒住宗忠)
無になれば不可能はない(ローム)
これらを、ラマナ・マハルシの言葉でまとめれば、次のようになると思う。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
~『私は誰か?』より~
つまるところ、一言で分かり易く言えば、
みんな、頭を使い過ぎるんだよ(ユーベル~葬送のフリーレン~)
頭の中の独り言を止めろ(ドン・ミゲル・ルイス。高藤総一郎)
となると思う。
そして、究極的には、
思考するな
ということだ。
まあ、現実的には、中山正和さんがよく著書に書いていたように、「頭の無駄遣いをするな」ということで、中山さんは特に「クヨクヨするな」と言う。
これは、昔の一休さんのアニメのように「気にしない気にしない」ということと思える。
問題は方法論だ。
中山さんは般若心経でも唱えろと言う。
コリン・ウィルソンは「シャンとする以外のことを考えない」と述べていたように思う。
ところで、ラマナ・マハルシの教えは、マハルシがタミール語を使ったことから、翻訳中にいろいろ齟齬が多くなるのだろうと思う。
マハルシは、
「『私は誰か』という想念以外の想念を起こすな」
「真我という想念以外の想念を起こすな」
などと教えたらしいが、意訳に意訳が入って複雑になったのだろう。
これでは、ふにゃふにゃして何も出来ない。
「私は誰か?」とずっと頭の中で唱えれば良いのかというと、マハルシは「『私は誰か』を呪文にしてはならない」とも言っていたらしい。
どんなやり方も、所詮は権力者に利用される。
たとえば、
「四の五の考えずに、やればいいんでしょ、やれば」
というのも素晴らしい知恵(『100%(J.スキナー)』より)だが、
「敵国の人間を殺せばいいんでしょ、殺せば」
「税金を払えばいいんでしょ、払えば」
と騙される。
だから、「思考停止するな、自分の頭で考えろ」と、逆の意見が幅を効かせるようになる。
こんな考え方もある。
中国の女優ノラ・ミャオがブルース・リーについて、
「いつも映画のことばかり考えていた」
と言い、ジャイアント馬場さんが、憧れのプロレスラーであったバディ・ロジャースについて、
「いつもプロレスのことを考えていた。そりゃ、いつも考えている人とそうでない人では、差がつきますよ」
と言っていたように、何か1つのことだけを考えるのも手かもしれない。
・・・と、どんどん思考が広がり、結局、私も失敗する(笑)。
宇宙人に1つのアイディアをもらった。
1日に百回を目安に、心の中で「私」と言うことだ。
最も思考を弱める言葉が「私」だ。
ラマナ・マハルシも、最高のマントラ(真言)は「私」で、2番が「オーム」だと言ったことがあるらしい。
「私」と心で言えば思考は止まる。
マハルシは1日中常に「私」と唱えよと言っていたが、それはちょっと・・・(笑)。
だから、思い出した時でいいから、「私」と唱えるのだ。
1回「私」と唱えるだけでも小さな奇跡が起こる。
それを1日百回程度唱えるだけで一千万円くらいは入って来る(笑)。
なら、千回なら・・・1億円か?(笑)。
いや、私は5千万円くらいでもいいかな・・・と言った人がいたっけ(笑)
だが、あながち嘘ではないようだ。
「私」は精神の素振りのようなものだ。
「私と唱えればいいんでしょ、唱えれば」
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省訳)
(2)黒住宗忠 (人物叢書 新装版)
(3)ヤオイズム(矢追純一)
(4)新釈 荘子 (PHP文庫)
(5)洞察力(中山正和)
(6)100%(ジェームス・スキナー)

AIアート1498
「月下の城跡」
Kay
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【わしは バカボンのパパなのだ
この世は むずかしいのだ
わしの思うようにはならないのだ
でも わしは大丈夫なのだ
わしはいつでもわしなので 大丈夫なのだ
これでいいのだと言っているから 大丈夫なのだ
あなたも あなたで それでいいのだ
それでいいのだ
それでいいのだ
わしはリタイヤしたのだ
全ての心配から リタイヤしたのだ
だからわしは 疲れないのだ
どうだ
これでいいのだ
これでいいのだ
やっぱりこれでいいのだ】