ほとんどの人は子供の時、誰もが知っている大画家、大音楽家、大作家といった大芸術家達が経済面・・・つまり、お金で苦労していたとは夢にも思わなかっただろうし、その方面に興味がなければ、大人になっても、そうだと思う。
しかし、普通に考えても、単なる芸術家がお金持ちどころか、まともにお金が稼げるはずがないことが分かると思う。
お金を稼ごうと思ったら、良い作品と言うより、売れる作品、広告の役に立つ作品を、量産しなくてはならない。
本物の芸術家が、そんなことをしたがるはずがない。
歴史に残った大芸術家というのは、能力プラス、運よく、働かなくても、お金を「もらえた」人達でしかない。
能力だけはあっても、経済面での運がなくて、埋もれてしまった、ピカソ、ゴッホ級の芸術家など、沢山いたと思う。
運よくお金をもらえた例としては、次のような芸術家がいる。
ゴッホは、絵は1枚も売れず、それでいて働きもしなかったが、生活や創作活動にかかるお金は、全て弟のテオが負っていた。テオは、おそらく、ほとんど文句の1つも言わずに天才の兄を支えたのだ。ゴッホは、欲しい画材の種類や数を書いてテオに渡すだけで、どんな高級画材もテオが購入してゴッホに渡した。
一方、ピカソは自分の作品を金にして金持ちになったと思われているが、単に、運よく、気前の良い大金持ちのパトロンがいたというだけのことで、そのパトロンは、ピカソが買えと言った絵を全て、大らかに高額で買ってくれた。
アンデルセンの時代には印税という制度がなく、アンデルセンがどれほど売れる作品を書いても、彼が受け取ったのは、出版社が作品を買い取る際に支払う原稿料のみで、その額は、それほど高くはなかったと思われる。
しかし、アンデルセンは、若くして国家から年金を支給されたので、生涯、働く必要がなく、ずっと海外旅行をしていた。とはいえ、額までは分からないが、大した額の年金ではなかったようだ。
アンデルセンの場合は、若くから有名だったから、著作には、著者としてアンデルセンの名が付いたが、そうでない人も多かったと思われる。
たとえば、アメリカの作曲家フォスターは、無名時代には、別の人物がフォスターの作品の作曲者だとされることがあった。有名な『おおスザンナ』も、当時はそうであったようだ。
宮沢賢治となると、著作で得たお金は5円だけだったと思う。当時の小学校教師の初任給の半分くらいで、今日では10万円にもならないと思う。
だが、宮沢賢治の家は裕福な古着屋で、賢治は生涯、お金に困ることはなく、欲しいものは大抵、何でも買えた。
賢治は、大学の成績は優秀だったので、卒業時に助教授のポストを打診されたが断っている。それで高校の教師になり、熱心に働いていたが、そう長くは続けずにやめている。こんなふうにやれたのは全て、賢治が金持ちの家の長男であったからだ。それでも、賢治は家業も父親も嫌っていたのだから贅沢な話だと思う。
賢治は、中年になってから、どこかの会社に勤め、セールスマンみたいなことをやっていたこともあるが、割とすぐに辞めている。とても向いていたとは思えないが、良い経験にはなったと思う。
珍しい金持ちの芸術家になったことで知られているのは、アメリカの画家アンディ・ウォーホル(1928~1987)だ。
彼は、元々が金持ちになる気十分で、そのための活動をした。
商品の広告やラベルの絵を描いたのだが、彼が、商用の絵というものを理解していたということだ。
このように、稼げる画家というものは、イラストレーターやデザイナーとしての実力がなくてならない。
岡本太郎も、デザインの能力は抜群で、自身、世界的画家でデザイナー・イラストレーターである横尾忠則さんは著書で、岡本太郎はデザイナーになればいいと書いている。横尾さんは、岡本太郎の有名な「太陽の塔」は、「デザインは超一流だが芸術作品ではない」と言う。
確かに、岡本太郎は商業作品も沢山作り、本当にセンスが良かったと思う。
芸術家に限らず、ちゃんとお金を稼ぐという意思を持ち、それを成し遂げると決めていれば、引き寄せの力が働き、お金は得られて当たり前と思う。
そんなわけで、豊かなお金を得たければ、経済的な目標を定め、スコット・アダムスの断言法のように、紙に目標を書くことを始めるか、他のやり易い方法で引き寄せを行うことが、やはり必要なのだと思う。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ぼくの哲学(アンディ・ウォーホル)
(2)アンデルセン自伝~わが生涯の物語~(アンデルセン)
(3)歓喜(岡本太郎)
(4)青春ピカソ(岡本太郎)
(5)池田満寿夫絵画を語る(池田満寿夫)
(6)イット・ワークス! ~あなたの夢を叶える小さくて赤い、すごい本~(RHJ)
(7)あなたも金持ちになれる(ジョセフ・マーフィー)
(8)信念の魔術(C・M・ブリストル)
(9)富と幸福の探し方(ラッセル・コンウェル)

AIアート1475
「西側の窓」
Kay
しかし、普通に考えても、単なる芸術家がお金持ちどころか、まともにお金が稼げるはずがないことが分かると思う。
お金を稼ごうと思ったら、良い作品と言うより、売れる作品、広告の役に立つ作品を、量産しなくてはならない。
本物の芸術家が、そんなことをしたがるはずがない。
歴史に残った大芸術家というのは、能力プラス、運よく、働かなくても、お金を「もらえた」人達でしかない。
能力だけはあっても、経済面での運がなくて、埋もれてしまった、ピカソ、ゴッホ級の芸術家など、沢山いたと思う。
運よくお金をもらえた例としては、次のような芸術家がいる。
ゴッホは、絵は1枚も売れず、それでいて働きもしなかったが、生活や創作活動にかかるお金は、全て弟のテオが負っていた。テオは、おそらく、ほとんど文句の1つも言わずに天才の兄を支えたのだ。ゴッホは、欲しい画材の種類や数を書いてテオに渡すだけで、どんな高級画材もテオが購入してゴッホに渡した。
一方、ピカソは自分の作品を金にして金持ちになったと思われているが、単に、運よく、気前の良い大金持ちのパトロンがいたというだけのことで、そのパトロンは、ピカソが買えと言った絵を全て、大らかに高額で買ってくれた。
アンデルセンの時代には印税という制度がなく、アンデルセンがどれほど売れる作品を書いても、彼が受け取ったのは、出版社が作品を買い取る際に支払う原稿料のみで、その額は、それほど高くはなかったと思われる。
しかし、アンデルセンは、若くして国家から年金を支給されたので、生涯、働く必要がなく、ずっと海外旅行をしていた。とはいえ、額までは分からないが、大した額の年金ではなかったようだ。
アンデルセンの場合は、若くから有名だったから、著作には、著者としてアンデルセンの名が付いたが、そうでない人も多かったと思われる。
たとえば、アメリカの作曲家フォスターは、無名時代には、別の人物がフォスターの作品の作曲者だとされることがあった。有名な『おおスザンナ』も、当時はそうであったようだ。
宮沢賢治となると、著作で得たお金は5円だけだったと思う。当時の小学校教師の初任給の半分くらいで、今日では10万円にもならないと思う。
だが、宮沢賢治の家は裕福な古着屋で、賢治は生涯、お金に困ることはなく、欲しいものは大抵、何でも買えた。
賢治は、大学の成績は優秀だったので、卒業時に助教授のポストを打診されたが断っている。それで高校の教師になり、熱心に働いていたが、そう長くは続けずにやめている。こんなふうにやれたのは全て、賢治が金持ちの家の長男であったからだ。それでも、賢治は家業も父親も嫌っていたのだから贅沢な話だと思う。
賢治は、中年になってから、どこかの会社に勤め、セールスマンみたいなことをやっていたこともあるが、割とすぐに辞めている。とても向いていたとは思えないが、良い経験にはなったと思う。
珍しい金持ちの芸術家になったことで知られているのは、アメリカの画家アンディ・ウォーホル(1928~1987)だ。
彼は、元々が金持ちになる気十分で、そのための活動をした。
商品の広告やラベルの絵を描いたのだが、彼が、商用の絵というものを理解していたということだ。
このように、稼げる画家というものは、イラストレーターやデザイナーとしての実力がなくてならない。
岡本太郎も、デザインの能力は抜群で、自身、世界的画家でデザイナー・イラストレーターである横尾忠則さんは著書で、岡本太郎はデザイナーになればいいと書いている。横尾さんは、岡本太郎の有名な「太陽の塔」は、「デザインは超一流だが芸術作品ではない」と言う。
確かに、岡本太郎は商業作品も沢山作り、本当にセンスが良かったと思う。
芸術家に限らず、ちゃんとお金を稼ぐという意思を持ち、それを成し遂げると決めていれば、引き寄せの力が働き、お金は得られて当たり前と思う。
そんなわけで、豊かなお金を得たければ、経済的な目標を定め、スコット・アダムスの断言法のように、紙に目標を書くことを始めるか、他のやり易い方法で引き寄せを行うことが、やはり必要なのだと思う。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ぼくの哲学(アンディ・ウォーホル)
(2)アンデルセン自伝~わが生涯の物語~(アンデルセン)
(3)歓喜(岡本太郎)
(4)青春ピカソ(岡本太郎)
(5)池田満寿夫絵画を語る(池田満寿夫)
(6)イット・ワークス! ~あなたの夢を叶える小さくて赤い、すごい本~(RHJ)
(7)あなたも金持ちになれる(ジョセフ・マーフィー)
(8)信念の魔術(C・M・ブリストル)
(9)富と幸福の探し方(ラッセル・コンウェル)

AIアート1475
「西側の窓」
Kay
人気ランキング参加中です |
![]() ![]() |