シュレディンガーの猫という命題は、シュレディンガー自体が考えたわけではなく、変なディテール(詳細)に凝り過ぎて分かり難い。
要は、箱の中の猫が、生きているか死んでいるかの確率が半々になる状態にされていて、実際にどちらかは、人間が箱を空けて確認しないと分からないという論である。
これは、根本的には、日本の丁半博打と同じである。
丁半博打で、サイコロが壺で隠れた状態で、丁か半かの確率は五分五分である。
そして、丁か半かは、壺振りが壺を上げるまでは「決まっていない」。
こう言ったら、「そんな馬鹿な!壺を上げなくても、丁か半かは決まっているはずだ」と言いたいだろうが、実は、壺の中では、丁の状態と半の状態は同時に存在しているというのが、量子力学の考え方だ。
(まあ、目に見える世界・・・つまり、マクロな世界では、確実にそう言えるわけではなく、シュレディンガーの猫の命題に細かい条件が付くのは、ミクロな事象の影響がマクロの状態を決めるようにするためである)

ドストエフスキーの『賭博者』で、ギャンブルの経験が全くない老婆が、ルーレットの0に賭け続けて大勝する。
それは漫画的な話なのだろうか、それとも、何か現実的なところがあるのだろうか?
主に子供の時にキリスト級の奇跡を何度も体験した私の個人的感覚で言えば、あるどころか、普通である。
勝とうが負けようが関係ない。何があっても0に賭け続ける。
このマインドであれば、勝たない方がおかしい。
ドストエフスキーは実際に病的な賭博好きだったが、脳の病気も認められた。
彼の銃殺刑執行直前に、中止になったこともあった。
そんな彼は、おそらく、私のように、普通の人にはありえないような奇跡現象が数多くあったのだと思う。
それは、彼が、ギャンブルで勝った状態と負けた状態、自分の銃殺刑が執行された状態と中止になった状態が同時に存在していることを感じることで、いつもではないだろうが、分岐した運命をどちらかに転がすことが出来たことが関係しているのだと思う。

ドストエフスキーを読みつつ、健康な精神を保てば、無意識に引き寄せの感覚が分かるようになると思う。
尚、やはりギャンブル好きだったヘミングウェイの作品にも同じようなところがあると思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)賭博者(ドストエフスキー。新潮文庫)
(2)武器よさらば(ヘミングウェイ。新潮文庫)
(3)賭ける魂(植島啓司)
(4)偶然のチカラ (植島啓司)
(5)運は実力を超える(植島啓司)
(6)運とつきあう(マックス・ギュンター)
(7)量子力学の奥深くに隠されたもの(ショーン・キャロル)

お花とシンクロ中
AIアート1473
「お花とシンクロ中」
Kay

  
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