私も影響されたのだが、ラマナ・マハルシや、その他いくらかのインドの聖者達は、自我というものを、完全に滅ぼさないといけない悪と見なしているように思う。
そして、こういった自我極悪論、あるいは、自我不要論に影響されたスピリチュアルな人達も多く、引き寄せでも「元祖一式」では、自我を全く不要なものとし、自我の願望を価値のないものとしている。
細かく言えば違うかもしれないが、自我は心、顕在意識と同じで、
自我 VS 真我
心 VS 魂
顕在意識 VS 潜在意識
人間 VS 神
といった対応関係、あるいは、対立関係があり、自我極悪論者、自我不要論者は、自我、心、顕在意識を徹底的に否定する。
しかし、そうではなく、自我と真我、心と魂は仲良くすべきという考え方があり、そちらの方が良いと思う。
ただし、あくまで、真我、魂が上で、自我、心が下である。
下とは言っても、親に対する子のようなもので、子に価値がないわけではないし、親は子を可愛がるものだ。ましてや、人間の親と違い、真我、魂は、自我、心を真に可愛がるものである。
イエスが神のことを父と呼ぶのも分かり易いのである(なぜ母と呼ばないのかは、ここでは置いておく)。
心が、自分は魂より上であると自惚れなければ良いのである。
宗教によっては、神は絶対的な暴君のようなものであるように言うこともあるが、人間の親だって、本当に子供のために暴君のように振る舞うことがあり、それが必要なこともあるのだから、神が暴君のように見えることがあっても不思議ではない。
神は、人間のような利己的な想いを持つことはない。
それなのに、人間が、神を暴君のように誤解するのは、人間の子供が、親をそう誤解することがあるのと同じようなものだろう。
イエスは、「願いは叶ったと思えば叶う」と言うが、一方で、「私の想いではなく、あなた(神)の想いが実現しますように」とも言っている。
心が叶えたいと思っても、魂は叶えない方が良いと分かっている場合には叶えない。それに文句を言うべきではない。
例えば、男が「あの女を妻にしたい」と、どれほど思っても、魂がそれを叶えないことがある。
男は、その女が誠実で素晴らしい人だと誤解しているが、実は、不純で強欲であるのかもしれない。
だが、欲望に目が眩んだ男が、どうしてでも彼女を望めば、いろいろな困難が生じ、男は痛い目を見ることになる。
確かに「諦めが悪い」ことが良い場合もある。
魂だって、心の願望が悪くないとしても、そう簡単には叶えない場合もある。
そんな時は、心は粘り強さを見せ、魂が願望を叶えるに相応しいことを示す必要がある。
だが、願望が間違っている時には、心はそれに気付かないといけない。
それには、普段から、心は魂と仲良くしないといけない。
聖書にも、「神と和し(親しみ)平和でいなさい。そうすれば幸福になる」と書かれている。
では、どうすれば、魂とか神といった存在と仲良くなれるのかというと、それらが、大自然と似た存在であることに気付けば良い。
大自然とか大宇宙という言い方は不思議なものだと感じている人もいると思う。これも、人間・心である「自然」「宇宙」に対し、魂・神である「大自然」「大宇宙」という対比からきたものである。
よって、人間は自然のリズムに合わせれば良く、それも、大自然に少しでも近い雄大なリズムであれば良い。
まずは、ゆったりと呼吸すべきだろう。なるべく大自然のリズムに近い、雄大さのある自然なリズムで。
それだけでも、魂、神と調和し、親しくなり、大抵の願いは叶うようになるだろう。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)老子 (岩波文庫)
(2)新釈 荘子 (PHP文庫)
(3)癒す心、治る力(アンドルー・ワイル)
(4)アルケミスト 夢を旅した少年(パウロ・コエーリョ)
(5)ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻(ベアード T.スポールディング)
(6)積極的考え方の力(ノーマン V ピール)

AIアート1424
「瞬間」
Kay
そして、こういった自我極悪論、あるいは、自我不要論に影響されたスピリチュアルな人達も多く、引き寄せでも「元祖一式」では、自我を全く不要なものとし、自我の願望を価値のないものとしている。
細かく言えば違うかもしれないが、自我は心、顕在意識と同じで、
自我 VS 真我
心 VS 魂
顕在意識 VS 潜在意識
人間 VS 神
といった対応関係、あるいは、対立関係があり、自我極悪論者、自我不要論者は、自我、心、顕在意識を徹底的に否定する。
しかし、そうではなく、自我と真我、心と魂は仲良くすべきという考え方があり、そちらの方が良いと思う。
ただし、あくまで、真我、魂が上で、自我、心が下である。
下とは言っても、親に対する子のようなもので、子に価値がないわけではないし、親は子を可愛がるものだ。ましてや、人間の親と違い、真我、魂は、自我、心を真に可愛がるものである。
イエスが神のことを父と呼ぶのも分かり易いのである(なぜ母と呼ばないのかは、ここでは置いておく)。
心が、自分は魂より上であると自惚れなければ良いのである。
宗教によっては、神は絶対的な暴君のようなものであるように言うこともあるが、人間の親だって、本当に子供のために暴君のように振る舞うことがあり、それが必要なこともあるのだから、神が暴君のように見えることがあっても不思議ではない。
神は、人間のような利己的な想いを持つことはない。
それなのに、人間が、神を暴君のように誤解するのは、人間の子供が、親をそう誤解することがあるのと同じようなものだろう。
イエスは、「願いは叶ったと思えば叶う」と言うが、一方で、「私の想いではなく、あなた(神)の想いが実現しますように」とも言っている。
心が叶えたいと思っても、魂は叶えない方が良いと分かっている場合には叶えない。それに文句を言うべきではない。
例えば、男が「あの女を妻にしたい」と、どれほど思っても、魂がそれを叶えないことがある。
男は、その女が誠実で素晴らしい人だと誤解しているが、実は、不純で強欲であるのかもしれない。
だが、欲望に目が眩んだ男が、どうしてでも彼女を望めば、いろいろな困難が生じ、男は痛い目を見ることになる。
確かに「諦めが悪い」ことが良い場合もある。
魂だって、心の願望が悪くないとしても、そう簡単には叶えない場合もある。
そんな時は、心は粘り強さを見せ、魂が願望を叶えるに相応しいことを示す必要がある。
だが、願望が間違っている時には、心はそれに気付かないといけない。
それには、普段から、心は魂と仲良くしないといけない。
聖書にも、「神と和し(親しみ)平和でいなさい。そうすれば幸福になる」と書かれている。
では、どうすれば、魂とか神といった存在と仲良くなれるのかというと、それらが、大自然と似た存在であることに気付けば良い。
大自然とか大宇宙という言い方は不思議なものだと感じている人もいると思う。これも、人間・心である「自然」「宇宙」に対し、魂・神である「大自然」「大宇宙」という対比からきたものである。
よって、人間は自然のリズムに合わせれば良く、それも、大自然に少しでも近い雄大なリズムであれば良い。
まずは、ゆったりと呼吸すべきだろう。なるべく大自然のリズムに近い、雄大さのある自然なリズムで。
それだけでも、魂、神と調和し、親しくなり、大抵の願いは叶うようになるだろう。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)老子 (岩波文庫)
(2)新釈 荘子 (PHP文庫)
(3)癒す心、治る力(アンドルー・ワイル)
(4)アルケミスト 夢を旅した少年(パウロ・コエーリョ)
(5)ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻(ベアード T.スポールディング)
(6)積極的考え方の力(ノーマン V ピール)

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