私が昔読んだ、聖徳太子が登場する山岸凉子さんの漫画『日出処の天子』で、厩戸皇子(聖徳太子)が、自分の超能力のようなものに対し、「こんなことはやろうと思えば誰にでも出来る。水が高い所から低い所に流れるように当たり前のことだ」といったようなことを言ったのに対し、私は「それはそうだろうね」と同意した。私は自分でかなり(超能力めいたことが)出来たからだ。

要は、皆、やり方を知らないのだ。
このことに関し、ラマナ・マハルシが面白いことを言っていたようだ。
マハルシは、イエスの奇跡の力について、こう言っていたらしい。
「イエスは自分の神通力について気付いていなかった」
つまり、厩戸皇子が言ったように、「極めて当たり前のことなので、気付きもしなかった」のだと思う。

『マトリックス』で、モーフィアスがネオにこう言ったらしい。
「速く動こうとするな。速く動けると知れ」
これも、「水を高い所から低い所に流そうとするな。高い所から低いところに流れると知れ」といったようなことだろう。

『葬送のフリーレン』で、若い魔法使いのユーベルが、自分をはるかに超える実力を持つ魔法使いゼンゼと全く同等の力を持つ複製対をあっさり倒すが、その直後、ユーベルは「みんな、頭を使い過ぎなんだよ」と言う。
ユーベルの攻撃は切ることであるが、ユーベルにとって、ゼンゼは切れて当たり前のもので、言い換えれば、ゼンゼを切れないことを知らないのだ。

最も当たり前のことが究極の真理で、それ(究極の真理)に一致すれば全能になる。
ただ、なかなかそこまでは難しいのが、究極の真理に近いことに一致しても、かなりのことが出来る。
合氣道家の藤平光一さんが、一応の真理としたのが「重みは下にある」で、「重みは下にある」と言えば奇跡を起こすことが出来る。ただし、真理の究極度がさほどでないので、そこそこの奇跡しか起こせないが。

デカルトは、究極の真理を探究し続け、ようやく見つけたと思ったものが、
「疑っている私は存在している」
で、これがどういうわけか「われ思う、ゆえにわれあり」というヘンテコな言葉にされてしまった(笑)。
これなら、むしろ、ルドルフ・シュタイナーが言ったように「われ思う、ゆえにわれなし」「われ思わず、ゆえにわれあり」の方が、よっぽどマシだ。

ニサルガダッタ・マハラジが言う究極の真理は「私は在る」だが、そう思いたい人はそう思うと良いかもしれない。
しかし、私は同意しない。
そもそも、これは、旧約聖書の「エヒイェ・アシェル・エヒイェ」の誤訳(私は在りて在るものである)を基にしたものと思われるし。
(これが誤訳というのは、確信はあるが私の独断)

各自、究極の真理を発見することだ。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』で、F.L.RAWSONがたどり着いた究極の真理は、
❝There is nothing but God.❞
だった。
「神の他に何もない」という意味だ。
※翻訳では「神の他に何もない。ただ神だけがある」と訳されている。
ラマナ・マハルシも同じことを述べていたし、『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナ神も、アルジュナにそう教えたと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)日出処の天子(完全版)1(山岸凉子)
(2)ヒマラヤ聖者の生活探究 第5巻(ベアード T.スポールディング)
(3)ラマナ・マハルシの教え ※『私は誰か?』収録
(4)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(5)葬送のフリーレン ※Amazon Prime Video
(6)氣の威力(藤平光一)

川縁にて
AIアート1421
「川縁にて」
Kay

  
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