旧約聖書の出エジプト記3章14節で、神がモーセに明かした神の定義ほどの言葉はないと思う。
これだけ知っていれば、他は不要かもしれない。
これらの言葉の余計な解説は不要だが、簡単なことは知っておくと良いと思う。

★私はなるようになるであろう
中国の荘子は、常々、「無為に徹し、なりゆきにまかせよ」と教えたが、それでどうなるか言わなかった。確かに、当時の中国は、本当にどうにもならない時代だった。
また、ラメッシ・バルセカールは「人は人生を全くコントロール出来ない。全くだ」と言ったが、これはイエスも言ったことだ。
つまり、「なるようにしかならない」のである。
しかし、ただのサラリーマンだった、ある凄い霊能力者はこう言った。
「だが、なるようにはなる」
なるようになることを受け入れるほど、望まずとも何でも与えられる。

★私は常に生成する者である
世界は一瞬一瞬新たに作り出されていることに、ほとんど誰も気付かない。
だが、私は、はっきりとした認識としては、7歳くらいから分かっていた(4歳くらいで気付いていたとは思う)。
一瞬一瞬、世界が創られるのがはっきり見えた。
これは、試してはいけないが、自殺する時に、ぼんやりとかもしれないが見えることがある。
英国の作家コリン・ウィルソンがまさにそうだった。
彼は、19歳の時、劇薬の青酸カリを口に入れる刹那にそれが見え、人生は全く別のものになった。
なるようになったのだ。
つまり、この言葉の「生成する」ものは世界全体である。
なるようになることを受け入れたら、内なる生成する者が、外側の心であるあなたを喜ばせてくれる。そのように生成してくれる。それは信用して良いと思う。

「私はなるようになるであろう」は、自我である心が言うことだ。
「私は常に生成する者である」は、真我である魂(神)が言うことだ。
だが、これらの言葉を合わせて唱えると、自我と真我は融合していく。
ゆるやかに融合するのが良いのだ。楽しいという意味で。
ラメッシ・バルセカールは、真我(魂、神)が、なぜ自我を作ったのかは分からないと言った。確かにそうだ。
しかし、真我は自我を嫌ってはいない。それどころか、さっき述べた通り、その全知全能の力で喜ばせたいのだと思うのだ。
カンザキイオリさんの『命に嫌われている』という歌があるが、それは誤解だ。とはいえ、そう感じるのは分かる。
なぜなら、この2つの言葉と真逆な観念を、学校やテレビに叩き込まれたからだ。
この「命」は、真我、魂、神と考えて良いだろう。それに我々は全く嫌われてなどおらず、かなり好かれている。
けれども、こういった正しいことを教えてくれるように見える人達も、やたら難しいことを言って、誰も分からなかったのだ。
だが、テレビなどのマスコミは消えるのではなく、これから正しくなるのである。
なるようになるのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)
(2)コリン・ウィルソンのすべて 上(コリン・ウィルソン自伝)
(3)新約聖書 新改訳(新日本聖書刊行会)
(4)神秘のカバラー(ダイアン・フォーチュン)
(5)魔法入門(W.E.バトラー)

フェアリー
AIアート1339
「フェアリー」
Kay

  
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