伊達政宗(1567~1636)は、「奥州の覇者」とも言われた戦国武将・戦国大名で、仙台藩初代藩主である。
「伊達者」「伊達男」という言葉の由来の人物でもあり、単に派手好きな色男であったというだけでなく、洗練されたダンディーな紳士でもあったようで、現代でも人気が高い。
政宗は、ごく若い時から天下取りを強く望み、織田信長に先を越されて落胆し、豊臣秀吉に対抗しようとするも、まるで及ばず、徳川の世になっても、しばらくは野望を捨て切れなかったとも言われている。
その政宗が、晩年にこんな歌を詠んでいる。

馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何
【読み下し by Kay】
馬上少年過ぎ、世平らにして白髪多し、残躯(ざんく)天の赦すところなれば、楽しまずんばこれいかん。
【現代語訳 by Kay】
馬で戦場を駆け巡った若き日は遠く過ぎ去った。
今や世の中は平和で戦はなく、私も白髪が多い歳になった。
それでも生きながらえていることが天の赦すところなら、楽しまずして何とする。

天下が取れなかった悔しさ、虚しさが現れているという解釈もある。
政宗は、「私がもう十年早く生まれていたら、信長に代わって天下を取っていた」と言うが、それは分からないが、政宗に信長ほどの軍人・政治家の器量があったかは疑わしい。とはいえ、秀吉、家康らに警戒される、十分な力ある武将でもあった。
だが、とにかく、政宗は、老いても、元気で生き残っていることは、天が赦しているのだから、大いに楽しもうと語っている。
前向きな想いか、天下が取れなかった腹いせ、ヤケクソなのかは分からないが。

だが、私は、虚しさもあるが、政宗は陽気であったと思うのだ。
だから、仙台藩はよく収められ、豊かで、また、文化も発展したのだと思う。

つまり、人間は楽しむべきなのだ。
無論、度を越してはいけないが、心を完全に無にする必要はない。
心を消すことが、引き寄せの鍵ではあるが、人間である限り、心を完全に消すことまでは求められないのだと思う。
十分に心が静かになれば、引き寄せ力が大きくなり、楽しいこと、嬉しいことがどんどん起こる。
そうであれば、欲張らず、つまり、余計なものを求めず、足るを知らねばならない。
これこそが、引き寄せの神髄であると思う。

最近、ご紹介している、究極の真言、
「私はなるようになるであろう」(心の真言)
「私は常に生成する者である」(魂の真言)
は、この引き寄せの神髄を自動的に成すものである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)馬上少年過ぐ(司馬遼太郎)
(2)運とつきあう(マックス・ギュンター)
(3)旧約聖書 出エジプト記(関根正雄訳)
(4)新釈 荘子(西野広祥訳)
(5)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)

虚ろ
AIアート1335
「虚ろ」
Kay

  
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