旧約聖書に究極の真理が書かれているとしても、問題は、それがヘブライ語で書かれていることだ。
日本語訳のものは、英訳されたものの日本語訳なのだろう。
その英訳は1611年にイギリスで刊行された欽定訳聖書を基にしたものか、少なくとも、それに大いに影響されたものだろう。

旧約聖書で最も重要な部分の1つが、神がモーセに対して名乗った部分と思う。
神は、自分を何と名乗ったのか?
それが有名な「I AM THAT I AM(私は在りて在るものなり)」である。
これは、あらゆるスピリチュアルなもので重要視されているが、この訳が、間違いとまでは言わなくても、深い意味を伝えていないのだとしたら大問題だ。
そして、実は、そうではないかとも思われる。
引き寄せの法則と言われるものが、実際には顕著な効果を現わさない理由もそこにあるのかもしれない。

神が自分をどう名乗ったのかは、ヘブライ語では正確にはどう書かれているのか?
ヘブライ語自体は難しい言語ではないらしいが、そこに込められた深い意味を読み取るのは難しいだろう。
神が自分のことをヘブライ語でどう名乗ったかについては、W.E.バトラーの『魔法入門』の171ページ(文庫版)に、
「エヒュー・アシェル・エヒュー」
と書かれている。
これが「I AM THAT I AM」と訳されたのだろう。
だが、『魔法入門』では、ヘブライ語学者によれば、正しくは、
「私はなるようになるであろう」
で、もっと忠実には、
「私は常に生成する者である」
と訳すことが出来るらしい。

「私はなるようになるであろう」は荘子的な意味に思えるが、ある非常に力がある超能力者(一応、こんな表現をする)が、常に言っていたことがこれであった。
正確には、「なるようにしかならない。しかし、なるようにはなる」である。
しかし、これは、「なるようにしかならない。しかし、なるようにはなるだろう」とした方が良いと思う。
「私は常に生成する者である」は、私にはなかなか衝撃的だ。
なぜなら、世界というものが常に生成されるものであることは、私は幼い時から知っていたが、それをやっているのが神であるということだからだ。
コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』では、その生成する者を「内なる魔術師」と呼んでいるが、これが真の自分である神ということだろう。

ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る」が究極のマントラ(真言)だと言ったようだが、駄目とは言わないが、まずまずといったところではないかと思う。
「私はなるようになるであろう」は比較にならないほど強力だ。
そして、「私は常に生成する者である」が究極になる。
そして、これらの言葉は、「あろう」とか「常に」といった細かい部分も重要である。

世界中のオカルティスト達は、騙されてきたとまでは言わないが、混乱させられてきたとは言えるだろう。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)右脳の冒険(コリン・ウィルソン)
(2)新釈 荘子 (PHP文庫)
(3)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)
(4)神秘のカバラー(ダイアン・フォーチュン)

エレガントな少女
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Kay

  
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