聖母マリアの出現について、本などで見たことがあるかもしれない。
最も知られているものとしては、1858年にフランスで、14歳の貧しい少女ベルナデッタ・スビルーの前に聖母マリアが現れた話があり、聖母マリアが出現した場所から湧いた泉水は「ルルドの泉水」と呼ばれ、その水が難病などの奇跡現象を起こすと言われている。
1916年くらいの、ポルトガルのファティマに出現したとされる聖母マリアの話もよく知られている。
出現した聖母マリアは、あまり喋らないようで、ベルナデッタも、出現した美しい少女(ベルナデッタは「人間で匹敵する者はいない」ほどの美しさと言った)が誰であるか分からず、「あれ」と呼んでいたようだが、ベルナデッタがその少女に「あなたは誰か?」と尋ねた時、少女は「ケ・ソイラ・インマクラダ・カウンセプシウ」と答え、ベルナデッタは意味が分からなかったが、その言葉を憶え、神父に伝えた。その言葉の意味は「私は無原罪の宿り」で、聖母マリアの別名であった。
聖母マリアの出現の話は、他にも多い。
ところで、どこの話だったか忘れたが、出現した聖母マリアに、子供の1人が「私たちに何を望みますか?」と尋ねたところ、聖母マリアは「いい子でいなさい」と言ったらしい。
私は、この聖母マリアの単純な言葉を印象深く憶えている。
「いい子」とは、今の世の中では、社会の規範によく従う子で、それはそれで必要な面もある。しかし、それが行き過ぎてしまっているように思う。
本来の「いい子」は、優しい子、親切な子、思いやりのある子、悪いことをしない、あるいは、悪い考えに同調しない子であると思う。
また、「いい人」とは、やはり、社会の規範に従い、社会の義務を果たす人と捉えられがちだが、やはり本来は、根本的に人間として優れているという意味なのであると思う。
だが、結局のところ、究極的な「いい子」「いい人」とは、心がおだやかな人と言って間違いないと思う。
そして、本当に心がおだやかな人は少ない、あるいは、滅多にいない。
心理学者の岸田秀さんが著書で「どれほど立派に見える人も含め、心がぐらついていない人はいない」と書いていたが、それが事実と思う。
私には、聖母マリアの「いい子でいなさい」は、「心おだやかでいなさい」ということで、それが人間に対する究極の指令であると思われる。
とはいえ、今述べた通り、それは極めて難しい指令である。
ところが、自分で自分に「心おだやかに!」と命じると、不思議なことに、心がおだやかになる状況が訪れ、一瞬かもしれないが、心はおだやかになる。それを繰り返せば、少しずつ、本質的に心がおだやかになっていくかもしれない。
引き寄せの究極とも思える「心おだやかに!」という言葉は、神の人間に対する教えとしても究極であるかもしれないと思う。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)聖女マリアはなぜ出現したのか(S.フィナテリ)
(2)ファティマ・第三の秘密(五島勉)
(3)聖母マリアの詩 上(マリア・ワルトルタ、フェデリコ・バルバロ )
(4)ルルドへの旅 ノーベル賞受賞医が見た「奇跡の泉」
(5)聖母マリア関連書籍一覧
(6)その望みは宇宙がかなえてくれる(ベルベル・モーア)
(7)星からの宅配便(ベルベル・モーア)※『その望みは宇宙がかなえてくれる』の別訳
AIアート1296
「古い石段」
Kay
最も知られているものとしては、1858年にフランスで、14歳の貧しい少女ベルナデッタ・スビルーの前に聖母マリアが現れた話があり、聖母マリアが出現した場所から湧いた泉水は「ルルドの泉水」と呼ばれ、その水が難病などの奇跡現象を起こすと言われている。
1916年くらいの、ポルトガルのファティマに出現したとされる聖母マリアの話もよく知られている。
出現した聖母マリアは、あまり喋らないようで、ベルナデッタも、出現した美しい少女(ベルナデッタは「人間で匹敵する者はいない」ほどの美しさと言った)が誰であるか分からず、「あれ」と呼んでいたようだが、ベルナデッタがその少女に「あなたは誰か?」と尋ねた時、少女は「ケ・ソイラ・インマクラダ・カウンセプシウ」と答え、ベルナデッタは意味が分からなかったが、その言葉を憶え、神父に伝えた。その言葉の意味は「私は無原罪の宿り」で、聖母マリアの別名であった。
聖母マリアの出現の話は、他にも多い。
ところで、どこの話だったか忘れたが、出現した聖母マリアに、子供の1人が「私たちに何を望みますか?」と尋ねたところ、聖母マリアは「いい子でいなさい」と言ったらしい。
私は、この聖母マリアの単純な言葉を印象深く憶えている。
「いい子」とは、今の世の中では、社会の規範によく従う子で、それはそれで必要な面もある。しかし、それが行き過ぎてしまっているように思う。
本来の「いい子」は、優しい子、親切な子、思いやりのある子、悪いことをしない、あるいは、悪い考えに同調しない子であると思う。
また、「いい人」とは、やはり、社会の規範に従い、社会の義務を果たす人と捉えられがちだが、やはり本来は、根本的に人間として優れているという意味なのであると思う。
だが、結局のところ、究極的な「いい子」「いい人」とは、心がおだやかな人と言って間違いないと思う。
そして、本当に心がおだやかな人は少ない、あるいは、滅多にいない。
心理学者の岸田秀さんが著書で「どれほど立派に見える人も含め、心がぐらついていない人はいない」と書いていたが、それが事実と思う。
私には、聖母マリアの「いい子でいなさい」は、「心おだやかでいなさい」ということで、それが人間に対する究極の指令であると思われる。
とはいえ、今述べた通り、それは極めて難しい指令である。
ところが、自分で自分に「心おだやかに!」と命じると、不思議なことに、心がおだやかになる状況が訪れ、一瞬かもしれないが、心はおだやかになる。それを繰り返せば、少しずつ、本質的に心がおだやかになっていくかもしれない。
引き寄せの究極とも思える「心おだやかに!」という言葉は、神の人間に対する教えとしても究極であるかもしれないと思う。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)聖女マリアはなぜ出現したのか(S.フィナテリ)
(2)ファティマ・第三の秘密(五島勉)
(3)聖母マリアの詩 上(マリア・ワルトルタ、フェデリコ・バルバロ )
(4)ルルドへの旅 ノーベル賞受賞医が見た「奇跡の泉」
(5)聖母マリア関連書籍一覧
(6)その望みは宇宙がかなえてくれる(ベルベル・モーア)
(7)星からの宅配便(ベルベル・モーア)※『その望みは宇宙がかなえてくれる』の別訳
AIアート1296
「古い石段」
Kay
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スリルを求めたり、セレブを志向したり、奇抜なもので気晴らしをしたりします。心に不足や欠損があると、逆にそれに憧れたり、理想化したり、追求したりしたくなります。二次的なものが、優先されてしまうのです。
そのような、状況において「心おだやかに」という聖母マリアの教えにも通じる言葉は、最も優先されるべきであるとともに、最も引き寄せにも有効かもしれないと思いました。
確かルドルフ・シュタイナーも「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」で、心おだやかであることの重要性に触れてました。
本来の自分に立ち還るヒントのようにも感じました。