嫌な状況を変えたり、消したりする効果的な方法が2つある(他にもあるだろうが)。
1つは、嫌な状況の現実性を疑うこと。
もう1つは、「心おだやかに!」と心の中で唱えること。
私はこの数か月、実験を重ねたが、いずれも大変な効果があり、何度も驚いた。

たとえば、嫌な人間がいる場合、疑う方式の場合は、その人間が嫌な人間であることが本当かを疑うやり方と、その人間が本当に存在しているのかを疑うやり方の2つがあり、いずれの場合もうまくいく。
疑う方式の場合は、そんなふうに、疑い方を考えなければならず、場合によってはかなり面倒だ。
一方、「心おだやかに!」と唱えるやり方であれば、ただ唱えるだけである。
嫌な人間がいたら、心おだやかでないはずで、逆に言えば、心がおだやかでなくなる原因になるから嫌な人間なのである。
そんな人間がいる時、「心おだやかに!」と唱えたら、心おだやかになる状況に変化する。
たとえば、その人間が、心を乱すような人間でなくなったり、あるいは、その人間がいなくなってしまう。

つまり、疑う方式の場合は、「どうなって欲しいか」を自分で選ぶが、「心おだやかに!」と唱える場合は、「どうなって欲しいか」は、自分で選ばず、魂か神かは分からないが、自分より優れた何かが選んでくれる。

疑う方式の場合、不適切な疑い方をする者がいる。露骨に言えば、頭が悪い者がそうだ。
「こんな疑い方はどうでしょう?」と言われて、その疑い方のあまりの馬鹿さに、あっけにとられたことがある。
それでも、疑ったことが、何らかの意味で消えるが、結果、そう疑った人の世界はぐちゃぐちゃになる。
その人は、ぐちゃぐちゃの世界に住むことになるのだ。
一方、「心おだやかに!」と唱えたら、高度な知性が間違いのない判断で良い状況・・・つまり、心おだやかになる状況に変えてくれる。

頭が良い人には、疑う方式は面白かったり、やりごたえがあったりすると思う。
丁度、頭が良い人が高度なRPG(ロール・プレイング・ゲーム)を楽しむようなものだ。
RPGの面白さは、うまくいくことだけでなく、失敗することも含むと思う。
疑う方式の場合は、消すことそのものは成功しても、辛い状況になる・・・つまり、新しい嫌なものを作る可能性がある。
一方、「心おだやかに!」と唱えることは、自分では何も考える必要はなく、しかも、間違いのない結果がやって来る。
「心おだやかに!」と唱えることは、頭が良くない人に向いているが、極めて賢い人にも、こちらを好む人がいる。
ソクラテスや矢追純一さんのように、普通の人よりはずっと賢いのに、自分の頭に見切りをつけている人だ。
つまり、彼らは、人間がいくら賢くても、大したことはないことが分かっている、とても賢い人達なのである。
非常に賢い人でも大したことはないなら、ましてや自分では・・・ということである。
実際は、ソクラテスも矢追さんも、世間で非常に賢いと言われるような人達も、実はさほどではないことが分かっているのだと思う。
だが、時々、疑って遊ぶのも良いかもしれない。

以上、参考になればと思う。

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