由緒ある神社やお寺には、極めて尊いと言われる仏像や神の絵や宝物があることがある。
それらのものの中には、あまりに尊いので、一般の人の目には決して触れさせないというものもある。
それらのものには、摩訶不思議な力が宿り、凡人が見たり触ったりしたら、大変な罰が当たると言われていることも多いように思う。
ある歴史的な人物が子供の時、罰が当たるというのは本当かと疑い、神社かお寺に忍び込んで、そんな尊いものを盗み出し、池に捨ててみたが何も起こらず、大人たちが言うことが嘘であることを確認したという話がある。
とはいえ、本当に罰が当たると思っている者が同じことをやると、罰が当たったように見えることになったかもしれない。
ジョセフ・マーフィー関連の本に書かれていたと思うが、アフリカかどうかの未開地で、生まれてきた子供に、長老が禁忌を与えるのだが、それが「バナナ」だとすると、その子は一生バナナを食べてはいけないことになり、食べたら死んでしまうとされる。ところが、バナナの禁忌を与えられた者が、料理にバナナが入っていたことに気付かずに食べ、後でそのことを知らされると、本当に死んでしまったらしい。
だが、この者も、バナナの禁忌を疑っていれば、何ともなかったと思う。
我々は誰でも、それほど極端ではないにしても、そういった馬鹿げた禁忌のような思い込みを沢山持っており、それが人生を台無しにしているし、本当は持っている神のような力を抑えつけている。
だが、そういった思い込み、つまり、固定観念を消していけば、本来の力が復活し、全知全能に近付いていく。
それには、上の、尊い何かを盗み出した者のように、証拠もなく信じさせられてきたことを疑えば良いのである。
その者は、その尊いとされるものを「これは本当は尊くない」と、尊さを否定したのではない。
否定しようとすると、かえって固定観念は力を増す。
しかし、「本当に尊いのだろうか?」と疑うと、固定観念は消えていく。
自分はモテないという固定観念を持っていると、本当にモテない。
また、「僕はモテる」と思い込もうとしても、大抵は失敗する。
しかし、「僕は本当にモテないのだろうか?」と疑うと、固定観念は消え、モテるようになる。
いかなるブス(ブ男)も固定観念である。
単に、親やきょうだいなどに、「お前はブスだ」という固定観念を叩き込まれたからブスになっただけだ。
そこで、「私は本当にブスなのか?」と疑うと、「あなた本当に美人ね」と言われるようになる。
無理矢理、アファーメーションで「私は美人だ」と何万回も唱えて美人になったという人もいるが、そこまで出来る人は滅多にいない。
しかし、疑うことは誰でも出来る。
ただし、何も求めずに、ただ疑うことが必要だ。
「美人になるために疑う」のではない。
「地球は本当に回っているのか?」という感じで疑うのだ。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)新装版 マーフィー100の成功法則(大島淳一)
(2)ポリー氏の人生(H・G・ウェルズ)
(3)方法序説(デカルト)
(4)オプティミスト(ヘレン・ケラー)
(5)共同幻想論(吉本隆明)
AIアート1212
「聖女の泉水」
Kay
それらのものの中には、あまりに尊いので、一般の人の目には決して触れさせないというものもある。
それらのものには、摩訶不思議な力が宿り、凡人が見たり触ったりしたら、大変な罰が当たると言われていることも多いように思う。
ある歴史的な人物が子供の時、罰が当たるというのは本当かと疑い、神社かお寺に忍び込んで、そんな尊いものを盗み出し、池に捨ててみたが何も起こらず、大人たちが言うことが嘘であることを確認したという話がある。
とはいえ、本当に罰が当たると思っている者が同じことをやると、罰が当たったように見えることになったかもしれない。
ジョセフ・マーフィー関連の本に書かれていたと思うが、アフリカかどうかの未開地で、生まれてきた子供に、長老が禁忌を与えるのだが、それが「バナナ」だとすると、その子は一生バナナを食べてはいけないことになり、食べたら死んでしまうとされる。ところが、バナナの禁忌を与えられた者が、料理にバナナが入っていたことに気付かずに食べ、後でそのことを知らされると、本当に死んでしまったらしい。
だが、この者も、バナナの禁忌を疑っていれば、何ともなかったと思う。
我々は誰でも、それほど極端ではないにしても、そういった馬鹿げた禁忌のような思い込みを沢山持っており、それが人生を台無しにしているし、本当は持っている神のような力を抑えつけている。
だが、そういった思い込み、つまり、固定観念を消していけば、本来の力が復活し、全知全能に近付いていく。
それには、上の、尊い何かを盗み出した者のように、証拠もなく信じさせられてきたことを疑えば良いのである。
その者は、その尊いとされるものを「これは本当は尊くない」と、尊さを否定したのではない。
否定しようとすると、かえって固定観念は力を増す。
しかし、「本当に尊いのだろうか?」と疑うと、固定観念は消えていく。
自分はモテないという固定観念を持っていると、本当にモテない。
また、「僕はモテる」と思い込もうとしても、大抵は失敗する。
しかし、「僕は本当にモテないのだろうか?」と疑うと、固定観念は消え、モテるようになる。
いかなるブス(ブ男)も固定観念である。
単に、親やきょうだいなどに、「お前はブスだ」という固定観念を叩き込まれたからブスになっただけだ。
そこで、「私は本当にブスなのか?」と疑うと、「あなた本当に美人ね」と言われるようになる。
無理矢理、アファーメーションで「私は美人だ」と何万回も唱えて美人になったという人もいるが、そこまで出来る人は滅多にいない。
しかし、疑うことは誰でも出来る。
ただし、何も求めずに、ただ疑うことが必要だ。
「美人になるために疑う」のではない。
「地球は本当に回っているのか?」という感じで疑うのだ。
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