誰が日本の総理になろうが、誰がアメリカの大統領になろうが同じである。
世の中には、誰それが総理大臣になったら日本は終わりだとか、あれがアメリカの大統領になったらアメリカのみならず世界は終わりだと言う人達が沢山いる。
そういったことを「これは陰謀論ではない。世界の真実だ」として、迫真性のある話を一定の説得力を持たせてインターネット上で語る人も沢山いる。彼らを疑う必要はないが、信じてもいけない。また、彼らの話を信じる人達を陰謀論者と言って蔑む必要もないが、あまり関わらない方が良いかもしれない。
少なくとも、誰が総理になったり大統領になったからといって、過度に感情的になる必要はない。

我々が気に入らないと思うのは、世界ではなく人生だ。世界を変えることは難しいが、自分の人生を変えることは難しくはない。
アメリカを代表する現代作家であるカート・ヴォネガットが最高の作家と称賛したH.G.ウェルズの自伝的小説『ポリー氏の人生』に書かれている、「人生が気に入らないなら変えてしまえばいい」という言葉を、イギリスの世界的作家コリン・ウィルソンは座右の銘のようにしていたようだった。
それでウィルソンは、何もかもうまくいかず、絶望的な状況で自殺寸前までいきながら、ふてぶてしく生きるようになり、25歳で著書『アウトサイダー』により、一夜にして世界的作家の仲間入りを果たし、それは生涯続いた。

どうしても総理や大統領が気に入らないなら、彼らが本当にいるのか疑えば、違う総理や大統領がいるパラレルワールド(並行宇宙)に移動するかもしれないが、それよりも、自分に直接関わりのある気に入らないことを疑って消してしまった方が良い。
こんな世界にいるのにも、何か意味があるのかもしれない(ないかもしれないが 笑)。
ヘレン・ケラーが悟った、五感で捉えられるものは全て幻想であるというのは、おそらく正しい。
ある幻想を別の幻想に変えたからといって本質的には何も変わらないなら、世界幻想よりも自分の人生の幻想を変える方が楽である。

とはいえ、ウィルソンも、人生の変え方を具体的に言ってはおらず、彼自身は、少々過激なやり方を取ったが、穏やかな方法がはっきり分からなかったのかもしれない。
だが、彼は、私が好きな、こんな話を、ある本の最後に書いていた。こういう書き方をする部分に一番重要なことが書かれている場合が多い。
ある、全く駄目な青年が「僕はどうしてこんなに駄目なんだろう」とつぶやくと、誰かが、「きみはちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」と言い、青年はそれを聞いて短期間で生まれ変わった。
その時、何が起こったのかについて、ウィルソンは「啓示を受けた」としか書いていない。ウィルソンにも分からないのだ。
だが、その青年は単に「本当に僕は駄目なんだろうか?」と疑い続けただけなのだ。
デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」は、本当は「疑っているわれは確実に存在する」である。
どういう経緯かはっきりしないが、これを「われ思う、ゆえにわれあり」としたことで、デカルトは最終真理を逃してしまった。
全ては幻想で、幻想は疑えば消える。
ただし、求めることで幻想が出来る。
だから、求めずに疑うことが大切で、執着せずに、ただ疑うことが必要である。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ポリー氏の人生(H・G・ウェルズ)
(2)方法序説(デカルト)
(3)オプティミスト(ヘレン・ケラー)
(4)共同幻想論(吉本隆明)
(5)タイタンの妖女(カート・ヴォネガット)

疑う
AIアート1211
「疑う」
Kay

  
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