自我(=心=思考)を消せば全知全能であるのに、なぜ自我が存在するのかは、私には謎だ。
ところで面白いことに、自我を消す真逆の方法がある。
1つは、最高の苦しみを感じること。
もう1つは、最高の喜びを感じることだ。

最高の苦しみの例として、芥川龍之介の『地獄変』で、人でなしの変人だが天才絵師の良秀が、唯一溺愛する彼の娘が焼き殺されるのを見るところがあったと思う。
それで良秀は地獄を見て傑作を描くが、自我は消える際に生命を道連れにする・・・まあ、あくまで小説である。
一方、最高の喜びの例として、インドの聖者パラマハンサ・ヨガナンダの師の師であるラヒリ・マハサヤが、師であるババジの幻術で、最大の望みであった宮殿のような家に一晩だけ住む願いを叶えたことがある。
それでマハサヤの自我は消え、悟りを開いた。

ところが、最高の苦しみと最高の喜びが同時という、マゾのようなものがある。
W.B.イェイツが自分で書いたのだと思うが(違うかもしれないが)、あるアラブ人が、家族を皆殺しにされた時、最大の苦しみを感じたが、直後に最大の喜びを感じたというお話がある。このアラブ人は、その後2回、同様の体験(最大の苦しみと最大の喜びを同時に味わう)をする。
このことについて、このアラブ人は実に複雑で抽象的なことを言うのだが、簡単に言い直す。
このアラブ人に「全ては神の思し召しとして尊重するのか?」と尋ねると、アラブ人は、「そうではない。神の意思を自分の意思としたのだ」と言う。
つまり、いかなる出来事も自分の意思と断定するのだ。
宝くじが当たっても外れても、それは神の意思であると共に自分の意思だ。
すると、自分が神であるということになる。
だが、自我はそんなことは認められないので、消えることになる。
自分がニートで、彼女(彼氏)が出来たこともなく、不遇の人生であったとしても、それは自分の意思であるとする。
すると自我は消える。

ところで、自我には楽しむ権利はあるらしい。
上で、ラヒリ・マハサヤが宮殿のような家に住んで楽しんだように。
ただ、ご存じとは思うが、自我はそんな時、「もっと」と思う・・・つまり欲張るのだ。
だが、自我が欲張らずに満足すれば消える。
数代に渡るアメリカ大統領を操り、投資でも莫大な財産を築いたバーナード・バルークに、「成功の秘訣は?」と尋ねたら、彼は「欲張らないことだよ」と答えたらしい(マックス・ギュンター著『運とつきあう』より)。

どんな願いでも叶え、喜ぶべきであるが、欲張らない・・・ちゃんと満足することである。
現状全て(おそらく世の中のこともだが、少なくとも自分の状況は)自分の意思であるとすれば神なのだから、どんなことでも叶うだろう。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)地獄変・邪宗門・好色・藪の中 他七篇(芥川龍之介)
(2)あるヨギの自叙伝(パラマハンサ・ヨガナンダ
(3)運とつきあう(マックス・ギュンター)

花の精
AIアート1021
「花の精」
Kay

  
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