どちらかというと私が嫌いな概念であったが、癒しとは必要なものだと思った。
しかし、アイドルや萌えキャラは、おそらく癒しにならないし、ペットもさほどではないと思う。
癒しに本当に必要なものは、気を許せる仲間とぶれない愛を注いでくれる人だ。
え?そんなもの居ねーって?(笑)
ところが、夢の中で十分なのだ・・・と、私もさっき分かった(笑)。
黙って私のために何かしてくれる人、そして、徹底的に気遣ってくれる人が夢の中にいて、それで完全に癒されたのだ。
むしろ、現実で気遣ってくれる人がいても、その気遣い方というのが、無私でないとか、こちらの意識とのズレを感じる場合がほとんどで、むしろ気遣ってほしくないと思うのではないかと思う。
私の夢の中に出て来た癒し人は、美少女ではなく、オバサンでもなく、普通のお姉さんタイプだったが、とにかく「あなたは何もしなくていい」「あなたは何も言わなくていい」「あなたは何も考えなくていい」と言い続けた。
何のことはない。その存在は聖霊、あるいは、魂だ(同時に神である)。
その教えが、密教の三密(身口意)の通り、

身・・・何もしない
口・・・何も言わない
意・・・何も考えない

である。
私が子供の時に使っていたマントラ「南無三(なむさん)」は、普通の仏教では、「仏」、「仏法」、「僧」に帰依する(全面的にすがる)ことだと言われてるが、これは嘘だ(と凄いことを言う 笑)。
本当の「南無三」とは、上の密教の三密を保持するという意味だ(言っておくが、普通の仏教とは違う論だ)。
密教、顕教関係なく、何もしないためには静かに座り、何も言わないために真言や念仏を唱え、何も考えないために曼荼羅や仏をイメージするのだが、まあ、静かに座るのは良いとしても、せいぜい、心で真言や念仏を唱えても良いだろう。
しかし、本当に優れているのは、今この瞬間に意識を向ける今今メソッドだ。
さすれば、自ずと、正しいことをし、正しいことを言い、正しいことを考えるだろうが、実際は、自分は何もせず、何も言わず、何も考えていないのである。

イエス・キリストは、自我に対し「退け!サタン!」などと酷いことを言ったらしい(笑)。
退けと言われて自我(サタン)が退いたりしない。
そうではなく、「お前は何も考えなくていい」と言ってやれば良い。
自我は安心して退き黙るだろう。
さすれば、神の天才を超えた考えが出てくるだろう。
荘子も同じことを言ったのだが、あの人は論理学者みたいなものなのだろう。それで小難しいことを書いたのだ。
「やるな」と「しなくていい」、「言うな」と「言わなくていい」、「考えるな」と「考えなくていい」では大違いである。
そう言ってくれる者は、何であれ、神であり、聖霊であり、魂であると思う。
上のようなことに近いことを言っている書物が『歎異抄』なのだと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)空海入門(ひろさちや)
(3)新釈 荘子(PHP文庫)

幻の宇宙
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