無限の数のパラレルワールド(並行宇宙)が存在し、想像し得る世界が全て在り、さらに新しい世界が出現し続けているという説が有力になっている。
自分が、赤いシャツを着ているか青いシャツを着ているか程度の違いである世界もあれば、ある世界では普通の大学生が世界的ロックスターである世界もある。
無数の世界が存在するというのは仏教の教典ではお馴染みで、その数はガンジス川の砂浜の砂の数と言われるが、実際はもっとはるかに多い。
そして、自分の精神が別のパラレルワールドに移動するらしいが、どのくらいの頻度で移動するのかというと、毎瞬ごとに移動しているという説もあるが、それが正しいのではないかと思う。

近年では、コンピューターゲームやVR(仮想現実)技術の発達により、パラレルワールドがイメージしやすくなったが、SFではパラレルワールドは1950年あたりから人気のあるテーマである。
1960年代の桑田次郎の漫画『殺人許可証(マーダーライセンス)』では、主人公の中学生の少年は、決闘が法律で許可されているパラレルワールドに移動してしまい、クラスメイトの少年と決闘をすることになる。ところが少年は、元の世界に戻っていることに気付かず、決闘相手の少年を殺してしまい、逮捕される。
ところで、この漫画の中で、主人公の少年にとって、決闘相手の少年は元の世界の少年と姿こそ同じだが、全く別の少年だし、元の世界の両親は、移動した世界では自分を知らなかった。また、元の世界での学校の担任教師は、移動先の世界では警察職員で、やはり自分のことを知らなかった。
人間関係において、このようなことも起こりうる。
つまり、移動した先のパラレルワールドの人は、元の世界での自分の関係と同じ場合もあるし、全く別の関係である場合もある。
そして、元の世界の人間と同じように見えようが、全く別人に見えようが、実際は別人と考えて良いと思う。
それが何を意味するのかと言うと、パラレルワールドに移動してしまうと、元の世界に戻って来ない限り、同じ人間には二度と会えないのである。
パラレルワールドに移動したら、今、目の前にいる愛しい恋人も、可愛い子供も、もう二度と会えない可能性が高い。
無限にあるパラレルワールドの中で、元の世界に戻ることはないと思える。
ならパラレルワールド移動はやめようかと思うかもしれないが、実は、毎瞬毎瞬、別のパラレルワールドに移動しているというのが事実と思う。
気付かないだけで、今、目の前にいる人は、一瞬で別の人に変わっている。
仏教では、愛もまた幻想だと言うが、その通りかもしれない。仏教はパラレルワールドが前提であるように思えることが多い。

CLAMP原作のアニメ『ツバサ・クロニクル』で、サクラ姫の敬愛すべき偉大な王である兄のトウヤは、移動した世界ではお好み焼き屋の店員で、元の世界のトウヤ王はサクラ姫を溺愛していたが、そのお好み焼き屋の店員はサクラに別に特別な感情を持っていない。
だからといって、悲しいことでも何でもない。
自分の恋人や子供や親友を極端に特別視するのは間違いかもしれない。
仏教的には、自分の子供を特別視することで、他の子供がどうでも良くなり、それが不幸を起こしているのだと思われる。
江戸時代、庶民の多くが長屋に住み、家ごとの垣根はほとんどなく、子供達はどの家の子も一緒にいて、食事の時間になると、どの家でも、そこに居る子供に誰でも食事を与えた。そして、どの子が自分の本当の子供なのか分からなかったという話もある。
パラレルワールド的には、それが適切な状態であり、人間的にも正しいのかもしれない。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)パラレルワールド 11次元の宇宙から超空間へ(ミチオ・カク)
(2)量子力学の多世界解釈 なぜあなたは無数に存在するのか
(3)ツバサ(1)(CLAMP)

夕陽に溶ける
AIアート931
「夕陽に溶ける」
Kay

  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ