人間の魂は全知全能で神のようなものだから、どんなことでも出来るはずである。
世の中には、普通の人が出来ないことをちょっとやって、人間の潜在能力を少し見せようとする者がいる。
たとえば、よくあるもので言えば、名刺で割り箸を切ったり、硬いスプーンを指で軽く曲げたりである。
世界的な能力開発コーチとして有名なアンソニー(トニー)・ロビンズは昔、燃える炭の中を歩いたり、レンガや木の板を素手で割るようなパフォーマンスを見せ、それをセミナーの受講者にもやらせた。
しかし、そこらが限界のようである。
小さな石ころ1つ、手を触れないで宙に浮かべるとか、コップの水を念じるだけで凍らせるといった簡単なことでさえ、誰も出来ない。
ところが、『ヒマラヤ聖者の生活探求』に登場する大師達は、コップの水を凍らせたり、種子をその場で発芽させたり、それどころか、空中からパンを出現させることが出来た。
新約聖書の福音書を読めば、イエスが沢山の奇跡を起こす様子が記述されている。

私も、子供の時から沢山の奇跡を起こしたが、サイコキネシス(念動力)などは全く出来ない。
ところで、私の、ごく普通の知り合いの何人かが、目の前で凄い奇跡を見せる超能力者と何度も会っているのだが、不思議なことに、私はどうしても、その超能力者に会えない。
だが、ついに、そんな超能力者の1人に会え、十人ほどの人達が見ている前で、いよいよ奇跡の技を披露してもらえることになった。
(一般には出てこない人だが、VIPの間では結構知られている人のようだった)
しかし、どうも、その超能力者の様子が、どこかぎこちなく、奇跡を起こすことが出来なかった。
おそらく、私が見ていたせいだと思う。
なぜなら、私には、今回は無理だと最初から分かったからだ。
その超能力者の守護霊か守護天使かは分からないが、力の発揮を止めたのだろう。
見たら、私が出来るようになってしまう。それはあまり良くないと私も思う。

奇跡の力を使うために修行のようなものは一切必要ない。
これは、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の大師達も認めていることである。
しかし、敢えて修行と言うなら、黒住宗忠が言ったように「阿呆になる修行」は必要かもしれない。
黒住宗忠は、名高い観想家(顔や身体の形で占う占術家)に、「言い難いが、あなたには阿呆の相が出ている」と言われ、喜んだのである。
こう言うと、阿呆の定義を聞きたがる馬鹿がいるが、そんなものはない。
世界的な分子生物学者の村上和雄さんが阿呆の価値を認めていたが、彼の著書あたりを当たってみても良いと思う。
また、日本には、一休や良寛といった偉大な阿呆もいて参考になると思う。
荘子は無用な者を褒めていたが、その無用な者が阿呆である。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)アホは神の望み(村上和雄)
(2)新釈 荘子 (PHP文庫)
(3)ヘタな人生論より一休のことば
(4)良寛 上 (学研M文庫)
(5)ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻
(6)新約聖書 福音書 (岩波文庫)

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