絶対的な善悪というものはないというお洒落な論がある。
本当にお洒落で心惹かれる。
『荘子』の『斉物論』で、「善といい悪と言っても、それは相対的なもので、一方から見れば善でも他方から見れば悪である」といったことが書かれている。
CLAMPの漫画・アニメ『魔法騎士レイアース』は、テーマそのものが「絶対的な善悪は存在しない」だったらしい。
中島敦の『名人伝』では、悟りを開いた弓の名人が「善と悪の区別がつかない」と言う。
実に心ときめく上級の知性を感じる論に、「馬鹿ではない」程度に頭の良い人は騙される。
まあ、馬鹿には元々善悪の概念はなく苦楽しか分からないのだから、それよりはマシかもしれないが。
『荘子』では、善悪を説く孔子が、大盗賊を改心させようとする。
しかし、泥棒を見事にやり遂げることが善とする大盗賊に孔子が説得されてしまう。
つまり、盗賊の立場と孔子の立場で善悪が異なるという論理だ。
いやいや、泥棒はやっぱり悪だろう。しっかりしろ孔子(笑)。
『魔法騎士レイアース』では、セフィーロという世界(我々から見れば異世界の1つ)の安定を維持するためには、エメロード姫が犠牲にならないといけないが、エメロード姫を愛する神官ザガードにはそれは受け入れられず、それならセフィーロを滅ぼそうとする。
セフィーロ滅亡を阻止するのがマジックナイトの善なら、エメロード姫を解放することがザガードの善である。
だから、絶対的な善悪はない。
いやいや、世界を滅ぼすことはやっぱり悪だろうザガードさん(笑)。
確かにエメロード姫は、ある程度は自由を制限されているが、彼女はいい暮らしをしており、引き換えに自分の役目を果たしているに過ぎない。そんなの誰でもやっていることだ。
また、こんな話がある。
貧困国では、泥棒をしても警察が捕まえないということがある。
貧しいので、泥棒をしなければ生きていけないからだ。
つまり、我々日本人にとっては泥棒は悪でも、そんな国では生きるための泥棒は善であるということだ。
いやいや、泥棒はやっぱり悪で、泥棒しなくても良い仕組みを作ること(一例として共有や分配等)が善だろう。
『レ・ミゼラブル』で、ジャン・ヴァルジャンが若い頃、パンを盗んだのは家族のためであり、やむを得なかったとしても、悪は悪であり善ではない。配慮は必要であっても、悪であることは認識しなくてはならない。
絶対的善悪はないというのは、猿知恵よりマシな低い知性の論であり、必要なだけの知性があれば確実に絶対的かどうかはともかく善悪はある。
絶対的善悪はないと、お洒落そうに騙す者は、闇の支配者の意図で動かされている者かもしれない。
『荘子』で、「一方から見れば善でも他方から見れば悪」というのは、単に「そう見えることもある」と言っているだけであるか、あるいは、改ざんされたのだろう。
確かに、善悪を浅はかな考え方で決定してはならない。
上であげた、泥棒は悪ではないというのが浅い考え方の典型だ。
他者の権利を侵害する行為はやはり悪なのである。
こう言うと「では、貧しい者に生きる権利はないのか」という、極端論、あるいは、今流行のストローマン論法で反論してくる者がいるかもしれない。
誰もそんなことは言っていない。
それは、「道路で子供を遊ばせてはならない」と言ったら、「では子供は家に閉じ込めておかなくてはならないのか」と言う典型的ストローマン論法と同じである。
子供が安全に、そして、迷惑にならずに遊べる場所を作るのが善であり、泥棒をしなくて済むよう、国家が援助したり(富の再分配)、人々が分かち合うのが善である。
子供が騒いだり、ものを壊す等の迷惑を我慢するよう強要するのが悪であり、権力者が独占したり、余裕があるのに他者に分けてやらないことが悪である。
善をなすのが難しいからといって否定してはならない。
『神様のメモ帳』という小説・アニメで、アリスという極端にか弱い少女が割り箸を2つに割れないのを見て、鳴海(高1男子)が、「僕がやろうか」と言うと、アリスは、「君は飛べないひな鳥を見たら、それを空に放り投げて満足し、ひな鳥はアスファルトに叩きつけられて死ぬ」みたいなことを言う。
確かに、親切もいらぬお節介であることはある。
だが、だからといって親切が悪いわけではなく、上で言えば、アリスは単に断れば良いのであり、鳴海は賢く引き下がれば良いだけだ。ここで必要なことは、お互いの冷静さで、信頼があればさらに良い。
賢いはずのアリスが言ったことは、極端なストローマン論法である。
作者は、うっかりアリスを馬鹿に仕立ててしまったのだ。これはミスである。
そもそも、善悪に「絶対的善悪」などという極端な言い方をする必要はなく、そこに悪意を感じる。
絶対的かどうかはともかく善悪は必ずある。
「道徳は安っぽい」「一方的な道徳を振りかざすな」と言うのを聞くこともあるかもしれないが、確かに、安っぽい道徳や独善的な道徳もある。しかし、道徳が必要ないわけではない。
ひょっとしたら、小説や漫画などを通じ、善悪や道徳を破壊することが闇の支配者の作戦ではないかと、妙な勘ぐりをしたくなる状況になっていると思う。
まあ、一見賢そうな人が、独善的な善悪や道徳を押し付けるというのは昔からある。
(個人的には、今では、武田邦彦さんや吉野敏明さんらもそうであると思う。善いところもあるのだが、害になるところも多いと思う)
だが、善悪、道徳とは、もっとシンプルで当たり前のものだ。
AIアート897
「相対的な美」
Kay
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)論語 (岩波文庫)
(2)新校訂 全訳注 葉隠 (上) (講談社学術文庫)
(3)トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇 (岩波文庫)
(4)ペロー童話集
本当にお洒落で心惹かれる。
『荘子』の『斉物論』で、「善といい悪と言っても、それは相対的なもので、一方から見れば善でも他方から見れば悪である」といったことが書かれている。
CLAMPの漫画・アニメ『魔法騎士レイアース』は、テーマそのものが「絶対的な善悪は存在しない」だったらしい。
中島敦の『名人伝』では、悟りを開いた弓の名人が「善と悪の区別がつかない」と言う。
実に心ときめく上級の知性を感じる論に、「馬鹿ではない」程度に頭の良い人は騙される。
まあ、馬鹿には元々善悪の概念はなく苦楽しか分からないのだから、それよりはマシかもしれないが。
『荘子』では、善悪を説く孔子が、大盗賊を改心させようとする。
しかし、泥棒を見事にやり遂げることが善とする大盗賊に孔子が説得されてしまう。
つまり、盗賊の立場と孔子の立場で善悪が異なるという論理だ。
いやいや、泥棒はやっぱり悪だろう。しっかりしろ孔子(笑)。
『魔法騎士レイアース』では、セフィーロという世界(我々から見れば異世界の1つ)の安定を維持するためには、エメロード姫が犠牲にならないといけないが、エメロード姫を愛する神官ザガードにはそれは受け入れられず、それならセフィーロを滅ぼそうとする。
セフィーロ滅亡を阻止するのがマジックナイトの善なら、エメロード姫を解放することがザガードの善である。
だから、絶対的な善悪はない。
いやいや、世界を滅ぼすことはやっぱり悪だろうザガードさん(笑)。
確かにエメロード姫は、ある程度は自由を制限されているが、彼女はいい暮らしをしており、引き換えに自分の役目を果たしているに過ぎない。そんなの誰でもやっていることだ。
また、こんな話がある。
貧困国では、泥棒をしても警察が捕まえないということがある。
貧しいので、泥棒をしなければ生きていけないからだ。
つまり、我々日本人にとっては泥棒は悪でも、そんな国では生きるための泥棒は善であるということだ。
いやいや、泥棒はやっぱり悪で、泥棒しなくても良い仕組みを作ること(一例として共有や分配等)が善だろう。
『レ・ミゼラブル』で、ジャン・ヴァルジャンが若い頃、パンを盗んだのは家族のためであり、やむを得なかったとしても、悪は悪であり善ではない。配慮は必要であっても、悪であることは認識しなくてはならない。
絶対的善悪はないというのは、猿知恵よりマシな低い知性の論であり、必要なだけの知性があれば確実に絶対的かどうかはともかく善悪はある。
絶対的善悪はないと、お洒落そうに騙す者は、闇の支配者の意図で動かされている者かもしれない。
『荘子』で、「一方から見れば善でも他方から見れば悪」というのは、単に「そう見えることもある」と言っているだけであるか、あるいは、改ざんされたのだろう。
確かに、善悪を浅はかな考え方で決定してはならない。
上であげた、泥棒は悪ではないというのが浅い考え方の典型だ。
他者の権利を侵害する行為はやはり悪なのである。
こう言うと「では、貧しい者に生きる権利はないのか」という、極端論、あるいは、今流行のストローマン論法で反論してくる者がいるかもしれない。
誰もそんなことは言っていない。
それは、「道路で子供を遊ばせてはならない」と言ったら、「では子供は家に閉じ込めておかなくてはならないのか」と言う典型的ストローマン論法と同じである。
子供が安全に、そして、迷惑にならずに遊べる場所を作るのが善であり、泥棒をしなくて済むよう、国家が援助したり(富の再分配)、人々が分かち合うのが善である。
子供が騒いだり、ものを壊す等の迷惑を我慢するよう強要するのが悪であり、権力者が独占したり、余裕があるのに他者に分けてやらないことが悪である。
善をなすのが難しいからといって否定してはならない。
『神様のメモ帳』という小説・アニメで、アリスという極端にか弱い少女が割り箸を2つに割れないのを見て、鳴海(高1男子)が、「僕がやろうか」と言うと、アリスは、「君は飛べないひな鳥を見たら、それを空に放り投げて満足し、ひな鳥はアスファルトに叩きつけられて死ぬ」みたいなことを言う。
確かに、親切もいらぬお節介であることはある。
だが、だからといって親切が悪いわけではなく、上で言えば、アリスは単に断れば良いのであり、鳴海は賢く引き下がれば良いだけだ。ここで必要なことは、お互いの冷静さで、信頼があればさらに良い。
賢いはずのアリスが言ったことは、極端なストローマン論法である。
作者は、うっかりアリスを馬鹿に仕立ててしまったのだ。これはミスである。
そもそも、善悪に「絶対的善悪」などという極端な言い方をする必要はなく、そこに悪意を感じる。
絶対的かどうかはともかく善悪は必ずある。
「道徳は安っぽい」「一方的な道徳を振りかざすな」と言うのを聞くこともあるかもしれないが、確かに、安っぽい道徳や独善的な道徳もある。しかし、道徳が必要ないわけではない。
ひょっとしたら、小説や漫画などを通じ、善悪や道徳を破壊することが闇の支配者の作戦ではないかと、妙な勘ぐりをしたくなる状況になっていると思う。
まあ、一見賢そうな人が、独善的な善悪や道徳を押し付けるというのは昔からある。
(個人的には、今では、武田邦彦さんや吉野敏明さんらもそうであると思う。善いところもあるのだが、害になるところも多いと思う)
だが、善悪、道徳とは、もっとシンプルで当たり前のものだ。
AIアート897
「相対的な美」
Kay
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)論語 (岩波文庫)
(2)新校訂 全訳注 葉隠 (上) (講談社学術文庫)
(3)トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇 (岩波文庫)
(4)ペロー童話集
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