「明晰夢」という言葉には問題があると思う。
「明晰夢」とは、夢だと自覚しながら見る夢のことであるが、私の場合で言えば、夢であると「明晰(明らかにはっきり)」に分かるほどではなく、「夢かもしれないな」「夢っぽいな」程度の自覚である。
私の最近の明晰夢は、「夢のようだな」という感覚から始まり、ほとんど初めて「これは夢だ」ときっちり判定したが、それでも、明晰と言うほどには絶対的な確信はなかった。
言ってみれば、恋人の愛を9割以上確信しているというのではなく、7割程度は信じているといった、割と不安もあるような感じだ。

さて、その明晰夢(と一応呼ぶ)の中で、私は「入ってはいけない場所」に入っていった。
なぜ「入ってはいけない場所」かというと、別に、誰かに「入るな」と言われたわけでも、「立ち入り禁止」の札があるわけでもなかったが、「なぜか入ってはいけない場所だと分かってしまう」からだった。
それでまあ、多少は緊張していた。
そして、2人の男が近寄って来るのを感じ、「身を隠さねば」と思った。
発見されたら、捕まえられるかもしれないし、捕まえられたらどうなるか分からない。
それで私は、一時的に不安になったが、一気に緊迫感をなくした。
「どうせ夢じゃん」と思ったかどうか憶えていないが、それよりも、映画や劇の役を演じている俳優の気分だったと思う。
どんな展開になるのか分からないし、展開をコントロール出来るかどうかも分からないが、とにかく心配する気にならなかった。
どうせ映画の撮影、あるいは、劇のようなものなのだからだ。

昔、UFOに追われる夢を見た時は、捕まった時のことを考え、恐怖を感じたが、今はそんなことは全くない。
そして、目が覚めていると思っている時こそ、本当の明晰夢なのだと思う。
だから、何が起きても心配してはならない。
そりゃ、論理的に考えれば、心配するという感情があるからこそ、人類は危険に備え、生き延びてきたように思うが、ひょっとしたら、心配しなかった者が生き延びたのではないかと思う。
この現実という明晰夢の中では、心配したことが起こるのだ。
ただし、普通は、心配したことは直ぐには起こらず、起こりそうな雰囲気をどんどん強くしていって不安を増大し、結果、起ころうが起こるまいが、我々は貴重な生命エネルギーを漏洩(漏らすこと)し、老化するのだ。

言い換えれば、この世は「心配しない者勝ち」「心配する者負け」なのである。
もちろん、心配しないためには思考を消せば良い。
その最上の方法は、当然、いつも言う通り、今今メソッドである。
志賀一雅博士の「よかった、ありがとう呼吸」も良いのだが、私は個人的にずっと、「ありがとう」が良くないと感じていた。
志賀博士は、赤ん坊に微笑みかけた時の赤ん坊の反応にたとえ、微笑みかけられた赤ん坊は喜ぶ、つまり、言葉で言えば「よかった」と言えるような状態になり、続いて、赤ん坊も笑うが、志賀博士は、この赤ん坊の喜びの表現が「ありがとう」であると言う。しかし、それはないと思う。
赤ん坊の喜びの表現は、単に、嬉しい、楽しい、愉快ということを示しており、「ありがとう」などではない。
ただし、「よかった」という表現は抜群で、これは、さすが志賀博士と思う。
で、私の場合は、研究の結果、「よかった、いい気分だ」になった。
息を吸いながら「よかった」と思い、吐きながら「いい気分だ」と思うのである。
「いい気分だ」は「安心だ」「穏やかだ」「平安だ」「のどかだ」「優雅だ」「嬉しい」「楽しい」「幸せだ」などでも良く、好きなものを選べば良いが、「想定の法則」を適用するなら、やはり「いい気分だ」が良いと思う。
とはいえ、やはり、自分が良いと思うもので良いし、どんどん変えていっても構わない。私も実はよく変えて行っている。

軽やか
AIアート874
「軽やか」
Kay


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(1)神さまの周波数とシンクロする方法(志賀一雅)
(2)魂の対外旅行(ロバート.A.モンロー)
(3)さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(エックハルト・トール)
  
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