死後の世界があるかどうかを証明することは非常に難しいし、実際にそれが成功したことはないと思う。
そこで、証明は無理としても、死後の世界が存在することを説得するには、2つの方法がある。

1つは、論理的推論として説得出来るかだが、これは不可能と思う。なぜなら、説得する材料が無さ過ぎる。
『青い鳥』で有名なモーリス・メーテルリンクがこれ(論理的推論)を試み、『死後の存続』で論を展開し、「これでもはや死後の世界がないと考える方がおかしい」と力説するが、私は全く説得力がないと感じたし、そもそも、あれほど小難しい話が本当であるはずはないと思う。
もう1つは、臨死体験者の話に説得力があるかどうかで、これに関しては、偉大なるエマニュエル・スウェーデンボルグの著作が有名だ。
これは非常に面白く、宗教的な崇高さと高度な知性を感じはするが、では、これが正しいこととして納得出来るかというと、それはないと思う。

子供の時から数多くのとんでもない奇跡現象を体験した私にも臨死体験はないながら、幽体離脱経験はあるが、これも、「絶対にただの夢ではない」と主張する根拠はないし、そもそも、自分でも「夢だったかもしれない」と思うところがある。

だが、古い死後の世界の観念で考えなければ、それほど難しい話ではないかもしれない。
つまり、なぜ、生と死を分けなければならないのかということだ。
いや、正確には、肉体の生と死にこだわる必要がないということで、死など存在しないと考えれば良い。
オーストラリアのアボリジニ族という民族では、今はどうか知らないが、生きていることと死んでいることをそれほど区別していないという話を見たことがあるが、これは、アボリジニに限らず、未開というか文明化されていない民族ではよくあることである。

ところで、世界がコンピューターゲームのようなものかもしれないと考えれば、そのゲームの中に、現世や死後の世界があっても全く構わない。
そして、人間の脳の記憶をコンピューター内にアップロードすることも可能になると考えられているが、それが出来れば、コンピューター内が、いわば死後の世界とも言える。
ただ、記憶をアップロードしたコンピューターが、AIとして、生前の人物と同じように反応をしたとしても、その人の意識があるかどうかという問題がある。つまり、そのAIが、生前の人物を単に模倣しているだけであれば、魂の存続場所としての死後の世界は存在しないことになる。
これを、専門家はクオリア(感覚質)があるかどうかの問題と言い、人間とロボットの違いは、クオリアがあるかどうかだけであると言う。
クオリアの研究者として有名な前野隆司さん(工学博士。慶応義塾大学大学院教授)は、「作り方が分からないだけで、クオリアを作ることはそれほど難しくはないと思う」と述べている。
しかし、我々が脳をコンピューターにアップロードするまでもなく、この世界がコンピューターゲーム(シミュレーション世界と言われることが多い)であるなら、我々は既に、何らかの意味でコンピューター内にアップロードされた存在であり、そして、自分に関しては、クオリアを持っていると知っている(まあ、他人がクオリアを持っているかどうかは、どうしたって分からないのだが)。

引き寄せというのも、この世界がシミュレーション世界であると考えた方が説明がし易いし、使い方も明確になる。
そして、シミュレーション世界の基礎理論は難し過ぎて分からないながら、引き寄せのような応用は、それほど難しくはない。
丁度、小学校(中学校かな)で習う「触媒」は、基礎理論は今も不明ながら応用として実用されているようなものである。
長々述べたが、つまるところ、引き寄せはそれほど難しいことではないと思う。
ただし、正しい原理などは、やはり分かっておらず、デタラメな話も多い。
しかし、使うだけなら、子供の私でも簡単に出来たように、「自分で出来るもん」と思えば、実は簡単なのである。

白百合の霊視
AIアート868
「白百合の霊視」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)脳はなぜ「心」を作ったのか(前野隆司)
(2)死後の存続(モーリス・メーテルリンク)
(3)シンギュラリティは近い [エッセンス版](レイ・カーツワイル)
(4)投影された宇宙(マイケル・タルボット)
(5)スウェーデンボルグの霊界日記(エマヌエル・スウェーデンボルグ)
(6)魂の対外旅行(ロバート.A.モンロー)
  
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