悟りを開いた賢者達が一様に言うことは、
「外の世界を無視しろ」
だ。
表現が微妙に異なるのは仕方がなく、
「感覚を外に向けるな」
「見えるものを信じるな」
「五感で捉えられるものは幻想だ」
「現実は夢だ」
「世界は幻想だ」
などで、他にもあるが、つまりは、見えるものは全部まやかしの嘘であるということだ。
問題は、それとセットで語られることであるが、これが少し難しい。
たとえば、
「内側に目を向けよ」
「感覚を内側に向けよ」
「”私”に意識を向けよ」
であるが、それらから分かることは、「内側=私の本体(真我)」である。
それを捉えれば良いのである。
では、「内側」「私の本体(真我)」とは何だろう?
それは、翻訳ベースであるが、

ラマナ・マハルシ:”私”という想い
ヘレン・ケラー:イデア(プラトン哲学の用語。解釈は多様だが、「永遠の実在」としておく)
ニサルガダッタ・マハラジ:純粋な気付き
ネヴィル・ゴダード:「私は在る」という感覚

である。
そして、これらは同じである。
しかし、それは、本1冊でも語ることが出来ないもので、つまるところ、言葉、あるいは、思考を超えたものだ。
だから、ヒンズー教では、それを、とりあえず、「彼」「それ」と言う。
それで、「私は彼である」「私はそれである」と言うのだ。

だが、あえて言うなら「それ」は、「純粋な存在」であり、「実在」と言って良い。
そして、上の中で、一番分かるように言ったのがネヴィル・ゴダードのものだ。
つまり、「それ」は「『私は在る』という感覚」である。

ニサルガダッタ・マハラジとネヴィル・ゴダードは、明確に、「『私は在る』という感覚に注意を向けろ」と言う。
もっと簡単には「『私は在る』と感じろ」である。
これだけやれば、全知全能に近付いていく。

迷子の妖精
AIアート770
「迷子の妖精」
Kay


私の知り合いに、このことを実証するためか、物品引き寄せ(アポーツという超能力)をやったり、火がついたローソクの写真の火を消したり、一晩で名画を十枚も描いたりする人がいて、見せられる人は喜ぶが、むしろ進歩の妨げになってしまう。
まあ、手品かもしれないと思って私は関心を持たないようにした。
明治時代に、「やらなければ有罪」と裁判官に言われてやむなく、そんなことをやった人(長南年恵)がいたが、やっていいことは何もなかった。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)アイ・アム・ザット~私は在る~ニサルガダッタとの対話
(2)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
(3)想定の『超』法則(ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(4)その思いはすでに実現している! (ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(5)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)※『AT YOUR COMMAND』翻訳書
(6)オプティミスト(ヘレン・ケラー)※『Optimism』翻訳書
(7)楽天主義(ヘレン・ケラー) ※『Optimism』翻訳書
  
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