ネヴィル・ゴダードの「想定の法則」の本と、ゴダードの(想定の法則以前の)最初の本で、共にはじめに書かれていることは、内容としては同じだが、読んで理解出来る人はいない。
理解どころか、その部分を読んだ人に「何が書かれていた?」と聞いたら、率直には、「わけのわからないことが書かれていた」ということになると思う。
数ページの内容だが、1行にまとめるとこうだ。

人間の本質は存在の自覚である。存在の自覚が神である。神が世界を創造する。

以下は私の見解であり、ゴダードの本には書かれていない。
つまり、想定の法則とは、神である存在の自覚に願望を伝える技術である。
存在の自覚とは、私は存在すると感じることである。
「私は存在すると感じること」とは変な言葉だと思うだろう。
なぜ変かというと、当たり前過ぎるからだ。
我々が知る最も当たり前なことの1つが「1足す1は2」だが、その千倍も当たり前なのだ。
どんな簡単なことも、疑おうと思えば疑える。
「1足す1は2」だって、その1と1が合体してしまえば、「1足す1は1」である。
また、ご存じのように、2進数では「1足す1は10」だ。
「1人じゃ寂しいのは当たり前だ」と言っても、1人でも平気な人が本当にいるかもしれない。
当たり前のはずの地動説だって、そう教わったからそう思っているだけで、自分で確かめた人なんて滅多にいないし、ひょっとしたら天動説が真実かもしれない。
つまり、この世に疑いようのないほど正しいことは、まずない。
だが、「私は存在する」だけは疑えない。
デカルトもそう思ったから「われ思う、ゆえにわれあり」だけが唯一の真実だと言ったのだが、彼はとんでもないミスをした。
思おうが思うまいが、私は在るのだ。

目が覚めて、思考が戻って来るまで・・・つまり、思うことを再開するまで、「われ思わず」であるが、そんな時でも、「われあり」で、われがないということにはならない。
いや、それどころか、自分の存在を最もはっきり感じるのは、思っていない時・・・思考していない時だ。
それで、ルドルフ・シュタイナーは「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」と、ややこしいことを言ったのだ(笑)。

「私は存在すると感じること」を、あえて真面目にやることが最高の魔法修行である。
もし、『葬送のフリーレン』のフリーレンやフェルンが本物の魔法使いなら、彼女たちはこの修行をたっぷりしたはずなのだ。
言い換えれば、あなたがこれをやれば、フリーレンやフェルンに近付き、彼女達以上にやれば、彼女達を超える。
ニサルガダッタ・マハラジは実際、「1日中、存在の感覚にしがみつけ」と教えた。
それで宇宙は自分のものになる。
マハラジも「宇宙は私のものだ」と言っていたのである。

繰り返す。
私は在る(存在する)と感じることを、あえて真面目にやろう。
それであなたは全てを得る。
ちょっとアドバイスをすれば、最も純粋な存在の感覚は、目が覚めて思考が戻って来るまでの間の感覚である。
その時の状態を想像すれば有意義である。
ちなみに、この修行をやるほど、想定の法則の効果は高まり、願望は瞬時に叶うようになる。

花達が隠す宝物
AIアート766
「花達が隠す宝物」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)想定の『超』法則(ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(2)その思いはすでに実現している! (ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(3)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)※『AT YOUR COMMAND』翻訳書
(4)アイ・アム・ザット 私は在る ~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~
(5)方法序説(ルネ・デカルト)
  
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