引き寄せのメソッド(手法)は高度なものになるほど、悟りを得るためのメソッドに近付く。
逆に、悟りを得るためのメソッドの簡単なものが、引き寄せの優れたメソッドとして役に立つ。
メソッドには沢山のものがあり、最上のものは、何度も述べたが、荘子が言ったような「何もしない(無為)」になると思うが、その他のメソッドに関しては、自分がやり易いもの、楽なもの、楽しいもの、気持ちいいものを選べば良いと思う。
メソッドの中でも、究極メソッドである「何もしない」に近く、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジが悟りを開いた方法を今回は取り上げる。
もちろん、私が取り上げるくらいだから簡単で、マハラジは「これのおかげで修行をせずに済んだ」と言ったくらいのものだ。
それは、究極の真理の言葉を知り、憶えておく・・・あるいは、忘れないことだ。
マハラジの場合、彼の師が彼に「あなたは至高の実在である」と言ったのを、マハラジは忘れなかっただけで7年で悟りを開いたと言う。
あくまで、悟りを開くのに7年であり、彼は憶えていないかもしれないが、それまでに様々なことが起こっていたのだ。
彼がもっと俗人であれば、早い時期に引き寄せがうまくなるのが分かって驚いたかもしれない。
ただ、マハラジの「私は至高の実在」の、「至高の実在」という言葉は、それでぴったりくる人はそれで良いが、私ば「至高の存在」の方が自然に感じる。このあたりは、各自、好きなようにアレンジすれば良い。
また、「至高の実在」にしろ「至高の存在」にしろ、これは神のことなので、神という言葉に抵抗がなければ「私は神である」と憶えておくと良いだろう。
確かに、「私は神である」をマントラとして頻繁に唱えるより、ただ「忘れない」「憶えている」方が、何というか、情緒的にも奥ゆかしくて良いと感じる。まあ、このあたりは人それぞれで、楽しければ「吾神なり」をマントラにしても良いと思う。
黒住宗忠は、ある武士に会うごとに、「人は天照大神と一体である」とだけ言い、それ以外に何も説明しなかった。
その武士は、この言葉を憶えていたので、ある時、不意にこのことが分かったようである。
無理に理解しようとしなくても、真理であれば、ただ憶えていれば、勝手に分かるのである。
さて、究極の真理も、言葉としては視点とか表現の違いとして、いろいろな言い方が出来る。
その中で面白いのが、「 あなたは既に全ての願望を実現しているし、幸せの絶頂にいる 」というものだ。
私はこれを、108さんの『ザ・チケット』(PDF書籍。「でじたる書房」サイトで販売されている)で見たが、この言葉も単なる事実で真理である。
つまり、こうあればいいなあとか、未来を先取りしたアファーメーションではなく、紛れもない事実である。
「あなたは至高の実在」も同じで、紛れもない事実である。
『ザ・チケット』では、「 あなたは既に全ての願望を実現しているし、幸せの絶頂にいる 」という言葉を長々説明しているが、果たして納得出来るかどうか・・・。
それよりも、これは真実なのだから、単に憶えて忘れなければ、それが現実になってくると思う。
AIアート673
「古い街」
Kay
言ってみれば、「私は18歳の外見」というのは、それが願いであれば、もう実現している。
だから、この言葉を忘れなければやがて現象化する。
しかし、この願望は「全ての願望」に含まれるのだから、「 あなたは既に全ての願望を実現しているし、幸せの絶頂にいる 」と憶えておいた方が良いし、この方が自我は反発しないものである。なぜなら、自我は、あまりのスケールの大きさにはついてこれないからだ。
だから、政木和三さんも、「何も願わないのが良いが、願うなら、一生かけても達成出来そうにないことを願え」と言ったのだと思う。
達成出来そうなことであるほど、自我は抵抗したり難癖をつけてくるのである。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)アイ・アム・ザット 私は在る~ニサルガダッタ・マハラジとの対話
(2)荘子(そうじ) 1 (中公クラシックス)
(3)新釈 荘子 (PHP文庫)
(4)いのちの教え―黒住宗忠に学ぶ自然体の生き方
(5)奇跡の実現―欲望を捨てれば不可能が可能になる(政木和三)
逆に、悟りを得るためのメソッドの簡単なものが、引き寄せの優れたメソッドとして役に立つ。
メソッドには沢山のものがあり、最上のものは、何度も述べたが、荘子が言ったような「何もしない(無為)」になると思うが、その他のメソッドに関しては、自分がやり易いもの、楽なもの、楽しいもの、気持ちいいものを選べば良いと思う。
メソッドの中でも、究極メソッドである「何もしない」に近く、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジが悟りを開いた方法を今回は取り上げる。
もちろん、私が取り上げるくらいだから簡単で、マハラジは「これのおかげで修行をせずに済んだ」と言ったくらいのものだ。
それは、究極の真理の言葉を知り、憶えておく・・・あるいは、忘れないことだ。
マハラジの場合、彼の師が彼に「あなたは至高の実在である」と言ったのを、マハラジは忘れなかっただけで7年で悟りを開いたと言う。
あくまで、悟りを開くのに7年であり、彼は憶えていないかもしれないが、それまでに様々なことが起こっていたのだ。
彼がもっと俗人であれば、早い時期に引き寄せがうまくなるのが分かって驚いたかもしれない。
ただ、マハラジの「私は至高の実在」の、「至高の実在」という言葉は、それでぴったりくる人はそれで良いが、私ば「至高の存在」の方が自然に感じる。このあたりは、各自、好きなようにアレンジすれば良い。
また、「至高の実在」にしろ「至高の存在」にしろ、これは神のことなので、神という言葉に抵抗がなければ「私は神である」と憶えておくと良いだろう。
確かに、「私は神である」をマントラとして頻繁に唱えるより、ただ「忘れない」「憶えている」方が、何というか、情緒的にも奥ゆかしくて良いと感じる。まあ、このあたりは人それぞれで、楽しければ「吾神なり」をマントラにしても良いと思う。
黒住宗忠は、ある武士に会うごとに、「人は天照大神と一体である」とだけ言い、それ以外に何も説明しなかった。
その武士は、この言葉を憶えていたので、ある時、不意にこのことが分かったようである。
無理に理解しようとしなくても、真理であれば、ただ憶えていれば、勝手に分かるのである。
さて、究極の真理も、言葉としては視点とか表現の違いとして、いろいろな言い方が出来る。
その中で面白いのが、「 あなたは既に全ての願望を実現しているし、幸せの絶頂にいる 」というものだ。
私はこれを、108さんの『ザ・チケット』(PDF書籍。「でじたる書房」サイトで販売されている)で見たが、この言葉も単なる事実で真理である。
つまり、こうあればいいなあとか、未来を先取りしたアファーメーションではなく、紛れもない事実である。
「あなたは至高の実在」も同じで、紛れもない事実である。
『ザ・チケット』では、「 あなたは既に全ての願望を実現しているし、幸せの絶頂にいる 」という言葉を長々説明しているが、果たして納得出来るかどうか・・・。
それよりも、これは真実なのだから、単に憶えて忘れなければ、それが現実になってくると思う。
AIアート673
「古い街」
Kay
言ってみれば、「私は18歳の外見」というのは、それが願いであれば、もう実現している。
だから、この言葉を忘れなければやがて現象化する。
しかし、この願望は「全ての願望」に含まれるのだから、「 あなたは既に全ての願望を実現しているし、幸せの絶頂にいる 」と憶えておいた方が良いし、この方が自我は反発しないものである。なぜなら、自我は、あまりのスケールの大きさにはついてこれないからだ。
だから、政木和三さんも、「何も願わないのが良いが、願うなら、一生かけても達成出来そうにないことを願え」と言ったのだと思う。
達成出来そうなことであるほど、自我は抵抗したり難癖をつけてくるのである。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)アイ・アム・ザット 私は在る~ニサルガダッタ・マハラジとの対話
(2)荘子(そうじ) 1 (中公クラシックス)
(3)新釈 荘子 (PHP文庫)
(4)いのちの教え―黒住宗忠に学ぶ自然体の生き方
(5)奇跡の実現―欲望を捨てれば不可能が可能になる(政木和三)
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