キリスト教に興味がなくても、イエス・キリストの荒野の試練の話は何となく知っているのではと思う。
これは簡単な話ではあるが、福音書に載っているままでは、それでも複雑過ぎるから、もっともっと単純に言ってみる。
イエスは、粗末な服と靴だけで・・・小屋のような建物すらなく、食べ物が入ったリュック1つない状態で40日を過ごしていた。
そんな、食べ物だけでなく、物質的なものへの欲求が極大になっているイエスのところに悪魔がやってきて、「俺に従うなら、何でも、世界中の富ですらやる」と言って、自分に服従するよう誘惑する。
福音書では、イエスがそれを断る理由をいちいち書いているので話をややこしくしているが、つまるところ、イエスは、「いらん。サタンよ、お前の負けだ。失せろ」と言ったのだ。
この「失せろ」もまた、福音書では「退けサタン」などと変な書き方をするから誤解を生むのだ。
ところで、このサタンの正体は、自我(エゴ)で、これは心であることは間違いないと思う。
そこまでは指摘している人は多い。
だが問題は、「失せろサタン(福音書的には「退けサタン」)」と言ったのもまた心だということだ。
なぜなら、心ではない本当のイエスであるキリスト(魂。真我。聖霊。内なる神)はそんなこと言わないからだ。
これはちょうど、馬鹿なことをした自分に、自分で「この大馬鹿者」と言うのと同じだ。
「この大馬鹿者」と言っている自分も、言われている自分も同一人物で、つまるところは同じ心だ。
イエスは、自分に対して「失せろ」と言い、自分が本当に失せた・・・つまり消えたのだ。
「行け俺」と言って俺が行くのは分かるが「消えろ俺」と言って俺が消えるのは奇妙に感じるが、同じことだ。
「自分を甘やかす」という言葉があるが、甘やかすのも甘やかされるのも自分・・・同じ心だ。
イエスの「退けサタン」は、「失せろ俺」という意味だが、この俺は心である。
よって、イエスは「失せろ心」と言ったのである。
これなら「退け心」と言っても良い。
だが、「失せろ」「退け」とは言ったが、実は、「消えろ」とまでは言わなかったのだ。
これはちょうど、議論をしていて、明らかに間違った論を主張する者に対し、正しい論を言う者が「失せろ」「退け」と言うのは正しいが「消えろ」と言うのは正しくないのと同じだ。論が間違っていても「居る」権利はあるのだ。
そして、間違った論を主張することをやめ、大人しくしていれば、正しい論による恩恵を間違った論を持つ者にも与えるのである。
これが真の民主主義である。
AIアート539
「行け私」
Kay
では、間違った論を持つ者をどうすれば大人しくさせることが出来るかご存じだろうか?
仕事を与えることだ。
間違った論を声高に主張するのは暇だからだ。
簡単だが気を抜けない仕事を与えておけば、静かになる。
たとえば掃除とか在庫確認とか。
「いや、掃除や在庫確認は難しいこともある」という空気の読めない、IQが低い主張は、やはり暇な者のやることだ。
そこで、心に、腕振り運動とか、足踏み四股、マントラ、念仏といった単調な作業の監督をさせたり、最高なのは静かで深い呼吸をさせることだ。
これが、キリスト、あるいはブッダ(仏陀。如来)になる原理である。
尚、腕振り運動、足踏み四股、深呼吸は、ダイエットや健康や身体強化といったオマケも沢山付いてくるのだから、やらない理由がない。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(2)ラマナ・マハルシの教え
(3)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
□足踏み四股に関して
(4)四股鍛錬で作る達人
(5)月刊 秘伝 2022年 03月号 [雑誌]
□呼吸に関して
(6)人生を思うように変える呼吸法
(7)弓と禅 単行本
これは簡単な話ではあるが、福音書に載っているままでは、それでも複雑過ぎるから、もっともっと単純に言ってみる。
イエスは、粗末な服と靴だけで・・・小屋のような建物すらなく、食べ物が入ったリュック1つない状態で40日を過ごしていた。
そんな、食べ物だけでなく、物質的なものへの欲求が極大になっているイエスのところに悪魔がやってきて、「俺に従うなら、何でも、世界中の富ですらやる」と言って、自分に服従するよう誘惑する。
福音書では、イエスがそれを断る理由をいちいち書いているので話をややこしくしているが、つまるところ、イエスは、「いらん。サタンよ、お前の負けだ。失せろ」と言ったのだ。
この「失せろ」もまた、福音書では「退けサタン」などと変な書き方をするから誤解を生むのだ。
ところで、このサタンの正体は、自我(エゴ)で、これは心であることは間違いないと思う。
そこまでは指摘している人は多い。
だが問題は、「失せろサタン(福音書的には「退けサタン」)」と言ったのもまた心だということだ。
なぜなら、心ではない本当のイエスであるキリスト(魂。真我。聖霊。内なる神)はそんなこと言わないからだ。
これはちょうど、馬鹿なことをした自分に、自分で「この大馬鹿者」と言うのと同じだ。
「この大馬鹿者」と言っている自分も、言われている自分も同一人物で、つまるところは同じ心だ。
イエスは、自分に対して「失せろ」と言い、自分が本当に失せた・・・つまり消えたのだ。
「行け俺」と言って俺が行くのは分かるが「消えろ俺」と言って俺が消えるのは奇妙に感じるが、同じことだ。
「自分を甘やかす」という言葉があるが、甘やかすのも甘やかされるのも自分・・・同じ心だ。
イエスの「退けサタン」は、「失せろ俺」という意味だが、この俺は心である。
よって、イエスは「失せろ心」と言ったのである。
これなら「退け心」と言っても良い。
だが、「失せろ」「退け」とは言ったが、実は、「消えろ」とまでは言わなかったのだ。
これはちょうど、議論をしていて、明らかに間違った論を主張する者に対し、正しい論を言う者が「失せろ」「退け」と言うのは正しいが「消えろ」と言うのは正しくないのと同じだ。論が間違っていても「居る」権利はあるのだ。
そして、間違った論を主張することをやめ、大人しくしていれば、正しい論による恩恵を間違った論を持つ者にも与えるのである。
これが真の民主主義である。
AIアート539
「行け私」
Kay
では、間違った論を持つ者をどうすれば大人しくさせることが出来るかご存じだろうか?
仕事を与えることだ。
間違った論を声高に主張するのは暇だからだ。
簡単だが気を抜けない仕事を与えておけば、静かになる。
たとえば掃除とか在庫確認とか。
「いや、掃除や在庫確認は難しいこともある」という空気の読めない、IQが低い主張は、やはり暇な者のやることだ。
そこで、心に、腕振り運動とか、足踏み四股、マントラ、念仏といった単調な作業の監督をさせたり、最高なのは静かで深い呼吸をさせることだ。
これが、キリスト、あるいはブッダ(仏陀。如来)になる原理である。
尚、腕振り運動、足踏み四股、深呼吸は、ダイエットや健康や身体強化といったオマケも沢山付いてくるのだから、やらない理由がない。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(2)ラマナ・マハルシの教え
(3)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
□足踏み四股に関して
(4)四股鍛錬で作る達人
(5)月刊 秘伝 2022年 03月号 [雑誌]
□呼吸に関して
(6)人生を思うように変える呼吸法
(7)弓と禅 単行本
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